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もの言わぬ石が語ること

昨年末から半端ない仕事量を抱え、修士論文ラストスパートが重なり、なかなか執筆まで手が回らず・・・。やっと落ち着いてきたので、溜まってしまったフィールドワークの資料整理を開始!

名古屋市中川区にある熊野神社から自転車で5分ぐらい走ると、八剱社に到着した。

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入り口で待ち受けていたのは、またもや「石」!!!
横に並んだ3つの石は、説明の札によると『力石』と呼ばれる力比べに用いられた石なのだそうだ。
『力石』について調べてみると、その由来は神霊の依坐である石を持ち上げることで豊凶・天候・武運等の神意を伺う石占の信仰に遡ると言われていて、江戸時代から昭和初期まで、全国各地で『力石』を用いた力くらべが行われていたらしい。昔はほとんどの労働を人力に頼るしかなく、必然的に個人の体力が必要とされていたため、この力くらべは、身体鍛錬が行われるとともに数少ない娯楽としての役割を果たしていたが、機械が普及し始め、娯楽の施設や物が増えると、次第に力石の存在や意味は忘れ去られていったそうだ。
八剱社の力石、一番重いものは一石五升、つまり150キロ以上になる・・・ヒョ〜!!これを持ち上げることが娯楽になる世界とは!

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よくよく考えてみると、神社は石で溢れている。
神社の参道の砂利、巨石、積石、列石、地蔵石仏、石塔、石碑、磨崖仏、道祖神……

神社に敷かれている砂利は、『玉砂利』と呼ばれる丸い小石だ。玉砂利の「玉」とは「たましい(魂)」「みたま(御霊)」という意味。そして、「美しい」「大切なもの」という意味も合わせて持っているそうだ。
『砂利』は当て字で、本来「じゃり」は細かい石という意味の『さざれ石』からきているそうだ。さざれ石?どこかで聞いたことあるような・・・

あっ!君が代!

わが君は
千代に八千代に
さざれ石の巌となりて
苔のむすまで

『君が代』は、平安朝時代、文徳天皇(850~858年)の皇子惟喬親王に仕えていた藤原朝臣石位左衛門実という歌人が詠んだものが、元となっていて、歌い出しは君が代ではなく、「わが君」はという出だしになっていたそうだ。鎌倉時代に入ると、おめでたい歌としてさまざまな歌集に祝い事の歌として収録されるようになり、 明治2年(1869年)、薩摩藩歩兵隊長だった大山巌が天皇陛下が臨席する儀式用の歌として「君が代」を選んだ。 その後、明治13年(1880年)に宮内省式部職雅楽課の雅楽師が曲をつけ、ドイツ人の音楽家が編曲し、11月3日の天長節で初めて演奏され、以後、国歌として用いられている。君が代が物議をかもすのは、「君」の意味だろう。戦争中は天皇を指すという傾向があったようだが、本来の意味は尊敬する人や愛おしい人を指しているそうだ。最近は、元歌に「我が君」とあることから恋人、家族、国家など広く解する傾向にあるそうだ。

「さざれ石」は、日本の国歌である「君が代」の歌詞に歌われることで、その名が知られている。ただし、歌詞中のさざれ石(細石)は文字通り、細かい石・小石の意であり、それらの小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い歳月を表す比喩表現として用いられている。〈wikipediaより〉

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歌いはするものの、「さざれ石の巌となりて」の意味を考えることなんて、なかった・・・

小さな石と石が、長い時間を重ね、合わさり、大きくなっていく。

欧米では「ローリングストーン」といって、石は削られ小さくなっていくものと理解されているから、体積が増える、大きくなる、なんて発想は出てこないんじゃないかな。でも、君が代では「小さな石がだんだん大きくなる」と歌っている。小石が大きな岩になるのだ!
このスケール感、すごい!「小石が大きな岩になる」なんて、なかなか考えつかない。

過去と現在と未来が一つにつながり、巌ができる。

素敵な発想だ!

君が代に詠われた「さざれ石の巌」は、岐阜県揖斐川町に現存しているそうだ。他にも、京都の勧修寺、賀茂御祖神社、上京区の護王神社などがあるようなので、ぜひ見たい!

石の歴史は長い。
物言わぬ石が秘めていること、もう少し知りたくなってきた。


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