不可視のマテリアル_vol.4
ねむり
作品の素材を紡ぐために、村上春樹著『ねむり』をテキストとして取り上げることにした。
ここではテキストが共創的なメディアとなる。私は翻訳者のように『ねむり』という物語に向き合い、物語の背後に隠されたコンテクストを探り、自身の出来事や記憶を重ね合わせながら新たなナラティブを紡ぐことを課せられた。その作業は誤読に満ちていた。ある意味を強化し、消失させながら共感や豊かなイメージを生む源泉としての派生的な「ナラティブ」を引き出していく。
『ねむり』は、『眠り』として1989年に書かれた作品を、著者自身が21年ぶりに加筆修正した作品だ。テキストとしてこの作品を選んだのは、眠ることではなく、眠らないことを描いていたからだ。この物語の主人公の主婦「私」は、17日間一睡もしていなかった。
〈あらすじ〉
「私」は、17日間一睡もしていなかった。全く眠れないにも関わらず「私」の意識はどこまでも明晰である。夫や子供に気づかれることなく、「私」は眠らなくなった時間に、かつての愛読書だったトルストイの小説〈アンナ・カレーニナ〉を読みふける。家事もきちんとこなす、習慣だった水泳も続け、誰にも気づかれることなく得た自分の時間を使って、「私」は人生を拡大しているのだと思い込み、どんどん傲慢になっていく。
「私」は覚醒し続ける中で暗闇を見続けているうちに、ふと『死』について思う。「死ぬということが、永遠に覚醒して、こうして底のない暗闇をただじっと見つめていることだとしたら?」
17日目、自分は死ぬのだろうか、と「私」は思った。真夜中に車に乗って出かけた「私」。そして停車した駐車場で、正体不明の影に車がひっくり返りそうなほど大きく揺さぶられる。「私」はどうすることもできず、車の中で泣くことしかできないでいる。
久しぶりに『ねむり』を読みかえしてみて、存在の空洞のようなものを感じた。日常の中にある漠然たる不安、不満、空虚感、閉塞感、停滞感、不確かさ・・・。
睡眠・不眠についての考察から始まり、主人公=「私」の意識は、自分の存在、生や死の問題へと深まってゆく。
私からの分離
日常のルーティーンをこなす肉体と、浮遊している精神。
眠らなくなった時間に「私」は自分の中に何人もの「私」を抱え込み、「分離」して増殖した「私」が日常生活で浮遊を始める。
人間の意識は肉体から分離しているのかもしれない。しかし、たとえ精神が肉体の上に立ち、肉体を眺め、隷属し、無視し、肉体を自由自在に支配するようになったとしても、精神は何かとどこかで繋がっていなければ、その存在は明らかにされない。
17日間、「私」の浮遊する精神は繋がるための様々な肉体を求め、「私」が「私」から分離していったのではないか…と、ぼんやり考えた。
私とは何者なのか?
母親となったときから、「私」には〈変化〉がなくなっていった。女性はライフステージによって短期間で劇的に変化していく。
少女から女性へ、そして母親へ・・・。
若さは急激な変化とともにあり、それゆえに迷いながら『自分探し』をする自由がある。そこから歳を重ねていくと、社会的な役割(主人公=「私」の場合は主婦として)が与えられ、その役割を全うするだけで日々が過ぎていき、そのうち消耗していく。この物語では、「私」は眠らないことで獲得した時間で『自分探し』を始める。
一体、私とは何だろうか。
私の中の何までが、私なのだろう。
多数のコミュニティに参加し、それが可視化されるのが常態化している現代、帰属意識において不安を抱え、ネットやSNSで複数のアカウントを持ち、ペルソナを演じる事に、ある種の罪悪感や疑問を感じたことがある人は少なくないだろう。
私達の心の中には 〈本当の自分〉というのがいて、〈本当の自分〉が出ていないとき、私達は《別の自分》を演じているのだろうか?
〈本当の自分〉は、ひとつなのか?
人格というものは、ひとつしかないのか?
私たちの世界はわからないことだらけだ。
そもそも自分が生まれた根拠もわからないし、死の意味もわからない。自分の本質も、他者のことも、社会のことも、わかってはいない。
根本的なありようとして、私たちはわからないものに包まれて生きている。にもかかわらず、基本的なことはわかっているのだという共同幻想を成立させて営まれているのが現代社会だ。
『私』はどこまでいっても『私』でしかなく、わからないものと共存していくことが、生きていくということなのかもしれない。
創作過程では、このテキストから17という数字を引き出し、作品の時間軸を考察していった。そのことについては、この次に書いていこうと思う。