運河のイボ神様
今回のフィールドワークについて書く前に、まずは中川運河についての概要を紹介!
中川運河はささしま地区の堀止船だまり及び、堀川と連絡する松重閘門から中川口閘門を結ぶ運河です。幹線並びに北支線・東支線と4つの横堀運河(小碓、南郊、荒子川、港北)によって形成されていて、運河は港湾施設として位置づけられています。[名古屋市HPより]
いろいろなことがあやふやだったのに、職場になるはずだったところの近くに家を借りたのが三年前。知り合いも全くいない見知らぬ土地、それでもここでやってやってみようと、最後に私の背中を推したのは、日々の営みの後ろ姿が浮かび上がっているような中川運河の景色だった。あれから三年、いまだに関東での仕事がメインになっているので、ずっと新幹線で行ったり来たりの生活が続いている。
新幹線が名古屋駅が近づくと、ささしまライブ24 が見えてくる。中川運河の堀止めがあるエリアだ。かつて、ここは「国鉄の笹島貨物駅」で、「はしけ」や「いかだ」による一大輸送幹線としての役割を果たし、市中心部の排水機能を受け持つ施設としても市民生活を支えたらしい。
はしけ??
艀(はしけ)は、河川や運河などの内陸水路や港湾内で重い貨物を積んで航行するために作られている平底の船舶である。(Wikipediaより)
中川運河は、名古屋港と名古屋都心を結ぶ長さ8km余りの運河で、1932年に全線開通。産業都市名古屋の物流・工業の軸となるべく生まれたこの運河は、1964年にピークを迎え、一日平均250隻ほどの船舶が出入りし、艀(はしけ)に暮らす人々で水面に町が作られ"水面町"と名付けられるほどだったそうだ。この運河には,広々とした水路の全区間が港湾地区に指定されていて、いたる所で荷の積み下ろしが可能だという大きな特徴がある。1960年代後半に入ると、貨物のコンテナ化とトラック輸送の普及により舟運は急速に減少し、中川運河は物流軸としての機能を失っていく。現在の取扱貨物量はピーク時の2%程度となっていて、水運の減少に伴って横堀運河の一部は埋め立てられ、その一部は南郊公園など緑地として活用されている。沿線の倉庫群などは減ってはいるもののその多くはまだ現役で、中川運河沿いには名古屋港から堀止まで工業地区の雰囲気が漂っている。
[出典: 名古屋海洋博物館]
現在、中川運河では、新しい利用価値を見出すべく様々な取り組みが行われている。この『mind scape』も、そうした取組のひとつである「中川運河助成ARToC10」(中川運河再生文化芸術活動助成事業)の採択事業なのだ。
中川運河助成ARToC10
「中川運河再生計画」(平成24年10月 名古屋市・名古屋港管理組合 策定)の趣旨に賛同されたリンナイ株式会社からの寄附を活用し、中川運河「にぎわいゾーン」の魅力向上を目指し、中川運河を舞台とする市民交流・創造活動につながる、アートへの助成を行うもの。
ここで、今回の取材に話を戻そう。
中川運河周辺のマップを見てみると、神社が多くあることに気づく。さすが日本で一番神社仏閣の多い愛知県!地元の地理と歴史を知るために欠かせないのは、神社やお寺だ。今回は中川運河周辺の神社を巡ることにした。
まずは、金比羅社(西宮神社)へ。
金刀比羅社(西宮神社)の創建については500年ほど前だったという話がある。1500年代前半といえば戦国時代だ。月島(この辺りの地名)一帯の守護神として天照大神荒魂を祀っていたという。今昔マップを見ると明治中頃(1888-1898年)ですら、このあたりは田んぼと中川以外に何もないようで、 村の集落からも遠く離れていたようなので、月島一帯の守護神としてアマテラスの荒魂を祀ったのなら、その辺りは自然災害が多く発生していたのかもしれない・・・いや、アマテラスだから、伊勢神宮からの繋がりかな?
気になるので、調べてみた。
平安時代になると伊勢の神宮に土地を寄進する荘園の制度も生まれたが、鎌倉時代になって武家政権となると、土地の利権争いが複雑化して、伊勢の神宮の荘園は奪われ、財政的に苦しくなったらしい。そこで一般の庶民からもお金を集めないといけないことになり、御師と呼ばれる人々が地名を巡って伊勢信仰を広めたり、各地から訪れる参拝者を迎えたりするようになる。その流れで全国に伊勢の神宮から天照大神を勧請して神明社が建てられた。名古屋にも西南部に一楊御厨と呼ばれる伊勢の神宮荘園があり、その関係で古くから多くの神明社があった。江戸時代の新田開発のときに勧請して祀った神明社も多い。やはり、金刀比羅社もこの流れで建てられたものなのかな。
ふと、東北の震災の時に調査されていた、被害に遭った神社についての記事が思い出された。それは2012年に東京工業大学大学院教授らが発表した『東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究』という、宮城県沿岸に祀られる神社の祭神と空間的配置、さらに被害状況を調査したというものだ。調査対象215ヶ所のうち53社が津波で被災。その中にスサノオを祀る神社は17社で、津波被害はわずか1社だった。反対に津波で被災した53社の祭神による内訳では、アマテラスや稲荷神を祀る神社が大半を占めていたらしい。
アマテラスの弟のスサノオは、乱暴者であったため天上界を追放され、出雲に向かい、そこでヤマタノオロチを斬ったとされている。ヤマタノオロチは出雲の国を流れる斐伊川のこと、これを斬ったということは川の治水に成功したという事をあらわす。水害や疫病に対する力をもったスサノオノミコトは非常時における神であり、伝統的地域社会において人々はスサノオを祀る神社を自然災害発生時に最も安全な場所に建てていたと、論文では結論付けている。
つまり、古代の人々の間では、自然災害に遭いにくい場所が伝承され、それにより神社の周囲に人々が集まり、何かあった場合は神社に避難していたことが考えられる。日本は、これまでの歴史のなかで何度も自然災害を受けてきている。その中で培われた先人たちの知恵、先人が私たちに残してくれた教えを知ることの意味を、あらためて考えさせられた。まさに温故知新だ!
金刀比羅社(西宮神社)は古くから「イボ神様」とも呼ばれ、願いを杓子に書いて奉納するという風習があったという。今でも拝殿には大きなしゃもじがかかっていて、願掛けにしゃもじを奉納する。しゃもじを奉納したら、大きなしゃもじの左側のお社にまつられた石に手を触れ、その手でイボをさすりながら祈るのだそうだ。
ここ金刀比羅社(西宮神社)には、名古屋城築城石切り場の石碑がある。1610年の名古屋城築城の際、月島のこのあたりに石垣の石切場があったという伝承が残っている。この時代、現在の小栗橋のあたりは「頓ヶ島」と呼ばれ、そこに船溜まりがあり、尾張、美濃、三河を始め、全国各地から運んできた石垣用の石をここで陸揚げして加工していたという。通説では各地で加工した石を熱田の湊まで船で運んで、そこから陸路で木橇(きぞり/修羅)に載せて運んだとされている。この写真の石は、残石=名古屋城の石垣石として運ばれたものの不要となり、放置され残された石らしい。よく見ると、クロワッサンみたいなマークが!
金刀比羅社、西宮神社、イボ神様、この他にもうひとつこの神社の呼び名がある。運河神社上宮だ。これは、中川運河ができたことにより、運河の総鎮守とされたことによる。上宮というからには下宮もあって、昭和9年に港区中川本町に金比羅大権言社(運河神社)が創建された。
この金刀比羅社(西宮神社)の境内では、ARToC10の助成事業として「クロスバウンダリー ~人と神社と運河をつなぐ~」という野外コンサートなども開催されている。
さしあたって、身体に「イボ」は思い当たらなかったが、ふとした時に疼く傷みの塊が消えてなくなるようにと、胸をさすりながら祈った。
ふと、祠の脇にたたずむキツネと目があった。眉間に皺を寄せ、訝しげにこちらを見るキツネ・・・
わかってますよ〜、心の傷みというイボはそんなに簡単に消えるもんじゃないことはわかっている・・・
よし、次に行こう!次の神社へ!
2021.10.7
中川運河助成ARToC10 採択事業
アート・プロジェクト 「mind scape」article.02
https://www.yokokoike.com/mindscape.html