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STORY OF 教興寺の戦い #8
三好家を世の中に広めるために頑張って書いた漫画その116
今回からこちらにUPすることにしましたが、いやあ…途中じゃねえか!
ってツッコミ入りますよね、確実に。ハイ。私もそう思った次第です。
後々、アップしようかなって思いましたが、そのうち冊子にまとめるので。
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教興寺の戦いでは、三好が何を得たのか?というよりは、領地の拡大途中に、いくつか重なった出来事があったわけです。
河内守護の畠山高政とその家臣安見宗房が長慶に敗れた(1560年)
長慶の末弟・十河一存が病死(1561年)
畠山高政と六角義賢が手を結ぶ(1561年)
久米田の戦いで、高屋城(河内)を預かっていた阿波三好家で長慶の次弟・三好実休が討ち死(1562年)
状況がかなり重なっているのですが、実はこの間に永禄四年(1561年)に、三好義興(この頃は三好義長※以下は義興に統一)が足利義輝を御成で饗応しているのですが、この時の主人は義興だったのですが、長慶ももちろん修理大夫に叙任されているので、管領として細川氏綱らと饗応しているのですが。
この頃、個人的に裏で動いてた河内守護の畠山氏らは絶好の機会と言わんばかりに取り返しに来ようとしている中、高屋城を任されていた三好実休は疲弊をしていったのではないかな?と思っています。(争いが長期化していた)
三好宗家は将軍と歩む道を、義興なりに模索していた最中だったと思います。
阿波三好は逆に駆り出されて、幼少の三好長治を阿波の重臣らに任せ、実休自体は未知の区域である河内へ、約一年こう言った動向に気を配り、統治するためにすごく疲弊したのではないかと思います。(私的な感想)
さて話は戻し、義輝との溝が深まったと思わしきことは、いくつかありますが。
そのあたりは、文献を読んでいただいた方が、実感が湧きます。
個人的にはその直後に起きる親三好だった政所当人の伊勢貞孝挙兵に連なり、この教興寺は別の意味で「義輝が実は伊勢貞孝を失脚・三好からの離間させたくてやったのでは?」なんて考えてしまうことがあったからでして。
それが三淵藤英(勝手に通称“ぶちたま“)が関連していて、そのことが、私が三好漫画を始めるきっかけだったというのも見逃せないところですね。
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