亀岡の夜
十月の末、園部から旧山陰道を走り、天引き峠の手前の集落で古民家に泊まるという秋のサイクリング計画を夫が立てた。日も短くなっているし、朝ゆっくり目に発って、まず亀岡で一泊。老年夫婦むきのゆるゆるスケジュールだ。
亀岡は何度か来ているが、旧市街には足を運んでいなかった。駅からちょっと離れたところに古い町並みがわずかに残っている。この駅と独立しているというのが肝心で、兵庫の龍野などもまったく駅と無縁にされたことで雰囲気が残った。古い町並みが好きでよく訪ねる。しかし、たとえば 塩沢、関宿、川越などはどうだろう。あのようにきれいに整備され、雑誌などで取り上げられるようになると、元々あったものと別の商業資本が入ってきて「らしい土産物」を売ったり、余計な飲食店が出来る。
店などろくに無く、適度にさびれ、保存地区にも指定されてないので新しい建物も混じり、そこは残念ではあるが、それでも昔が偲ばれるというくらいの加減がいい。
亀岡の旧市街に足を踏み入れた時刻にはもう日が暮れかけていた。家々に大きな提灯がぶら下がっていてぼんやりと灯り、字が書いてある。角を折れるとその道筋はまた別の文字。店舗というものがないので、この時間で早くもひっそりとしている。通りに面してガラス戸の中に、兜や鎧を飾っている家がある。骨董屋では無い。個人の住宅なのだ。歩いて行くとまたしてもそういう家がある。そこでついに私たちは気がついた。
「きょうはお祭りだったみたいね」
やがて山鉾を格納庫にしまっている男衆達がいて、すっかり謎がとける。亀岡の祭りは祇園祭りを模したもので、だから裕福な家は所有の兜や鎧や着物をこの日のために通りに面した部屋に通りから見えるように出すのだ。家の作りがすでにそのようになっている。その有様は「自分たちはただそうしてきた」という控えめな落ち着きを感じさせて、雰囲気のいいものである。暗いのでよく見えないが、東京圏でいったらあきらかに「お屋敷」の部類になるような住宅が、しずかに連なっている。外灯が暗く赤みを帯びていて、何十年も前の世の中に戻ったようだ。それはよそ者に、十分敬意を抱かせる。そう、ひとが為したことへの敬意であり、自然に対する賛意とは違う。
横丁をまがる。道はさらに」暗くなる。「柿渋」と墨で大きく書いた看板のある、ちょっとゆがんだ家屋の前でGパンをはいた初老の男性がなにかしている。麻でできたTシャツが薄汚れた状態で店先にぶら下がっていて、わたしが値札を触っていると、話しかけてくる。
「あんたらどこから来たん?」
「東京から」
「ほな、新幹線でか」
「そう、自転車をたたんで電車に乗せて。明日は街道を篠山の方に走るつもり」
「ここは何屋なんですか」
「こっちはわての住まいや。奥は倉庫。ちょっと見ていくか?見るのはタダだから」あっさりして、機嫌がいい。
誘われるままに裏手に回った。驚いた。染織するまえの白生地が倒れんばかりに、山なしている。聞けばここは「棉生テキスタイル」という棉布・麻布の反物問屋なのだ。様々な織り、厚み、の生成りの生地がくらくらするほど豊富に存在している。
「ちょっとこの生地ヨーガンレールみたい」とつぶやくと、すかさず「ヨーガンさん、以前は来てはったでえ」「けど、沖縄に行きはってからおかしくなったな」と言う。
「イッセイさんとこの仕入れの担当のMさんもな。あの人は美人やけど、きついで」
「わあ、すごいんですね!」
「無印さんとこに入れとったこともあるけど、あそこはな、大きいやろ。するとものつくりではなく、全部が計算、全部が利益が出るかでないかになっているんや。そやから、付き合うのはやめた」
こんな崩れかけた倉庫に?しかしこの品そろえを見ていると、なるほどでもある。一流のアパレル産業を支える原材料はこのようなところにひしめき、全国からここ亀岡の深部まで担当者が足を運ぶのか。新しい事実を知った。
旅で何に出会うかは、何で決まるのだろうか。ともかく不思議と出先、出先で出会いがあり、話すうちに「まあ、上がれや」とか「見て行くか?」となる。「今回もまた!」と内心驚きつつ、どこか納得もして、駅への暗い道をもどった。