Report『可能性の姿』#2
―第二幕―
「それで、二週間近く研究室に籠っていたんですか?」
長い黒髪を揺らしながら、小柄なウマ娘が尋ねる。金糸雀色の瞳には、問いかけた相手への呆れがたっぷりと湛えられている。
「そうとも、ノリにノッってしまってね。時間を忘れる、というのはまさにこのことを言うんだろうねぇ」
「本当にあなたって人は…少しは反省したらどうです?」
朽木邸へと向かう道中、俺たちはもう一組のペア、つまりウマ娘とその担当トレーナーと合流した。
「この私に可能性を追いかけるのを止めろって?随分な物言いじゃないか、カフェ」
「他人に迷惑をかけるのを止めろっていう意味です」
マンハッタンカフェ。彼女は尸魂界においても、一段と知名度の高いウマ娘だ。幽霊が見えるという特徴は、それすなわち霊力を持つウマ娘ということになり、死神たちの間でもその特異性が噂になっているのだった。
「用事のほうはまだ済んでないんだろ?」
「うん、まだ全員とではないけど、僕もカフェもお腹が空いてきた頃合いだったし」
マンハッタンカフェは"お友達"に会うために、こちらへやってきたのだ。現世のカフェが知覚できるお友達の中にも、時々いわゆる"成仏"をする者も居るそうで、そういったお友達と再会できる場所が流魂街だった。
「お友達も、もっとお話したいと言ってくれました」
穏やかな表情でカフェが呟く。
「私もこの目で見るまではにわかに信じがたかったんだが、こうも見せつけられてしまうとねぇ…一体どういう仕組みなのか、カフェのお友達を研究して―」
「タキオンさん、私本当に怒りますよ…」
前回の尸魂界訪問では、時間が限られていたためお友達に会いに行くことができなかった。カフェはお友達の気配を感じながらも、後ろ髪を引かれる思いで現世へ戻っていったのだ。今回、俺がタキオンを連れ帰るにあたって、ちょうどいい機会だからと同行する流れになったのだ。尤も、タキオンがごねた時の強制連行要員として、俺が最初に動向を頼んだわけだけども。
ちなみに、技術開発局まで同行してもらう案は「あの隊長に『霊力を持つウマ娘とは君のことだネ』とか言われて実験されそうだから」という理由でトレーナーの彼からNGが出た。
タキオンとカフェが平常通り戯れている光景を、トレーナー二人で微笑ましく眺めていると、目的の朽木邸に辿り着いた。
「いや、相変わらずでかい屋敷だよな…」
トレセン学園総出で押し掛けた際も、全員を収容してなお余りある広さ。こちらの世界では四大貴族と呼ばれるだけのことはある。一点の曇りもなく磨き上げられた門扉からとてつもない風格を感じる。
「えっと、これどうやって入ればいいの?」
「俺にも分からん」
成人男性二人があたふたしていると、ピクリと耳を動かしたカフェが身構えた。
「…来ます」
朽木邸の重厚な門が開くと、ルキアさんが付き人と共に俺たちを出迎えた。
「やはりカフェ殿の霊圧でしたか!」
幅広い朽木邸の外廊下を進む。庭にいるであろう、小鳥のさえずりが心地いい。門扉と同様、床も鏡面のように綺麗に磨き上げられており、ただ歩いているだけなのに妙な緊張感があった。庭園中央の大池には、立派な鯉たちが悠々と泳いでいる。
「先程、阿近副隊長から連絡がありまして、タキオン殿とトレーナー殿が参られるということで―」
あれ、意外に技術開発局の面々、優しい。だがそう丁寧に対応されると、これもマユリさんの研究に付き合わされているだけなのではないかと勘繰ってしまう。
「―覚えのある霊圧だと思っていたのだが、まさかご一緒だとは」
「やっぱりカフェの霊力、感じ取れるものなんですか?」
担当トレーナーとしては、気になるところだろう。ルキアさん曰く、霊圧には各々特徴があり、それを感じ分けることで個人を識別できるという。
「カフェ殿の霊圧は、例えるなら星のよく見える夜空のような、静謐な闇と煌めく光が共存しているような…そんな感じでしょうか」
一方、カフェの方もお友達の気配を感じられるように、死神たちの気配も感じられるようで「ここの人たちは強い気配ですから」と、霊力の大小もある程度分かるようだった。
「してトレーナー殿、炊事場をお貸しすればよいのだな」
朽木邸の炊事場と食堂はこれまた広い。明らかに家中の者より多くの人数を収容できる。この食堂は、現当主である朽木白哉が屋敷の一部を最近改装させてできたものらしいが、それにはある理由があるらしい。
「そうなんです、ウマ娘にはそれぞれ適切なメニューがあるので、できれば自分で調理したかったものですから」
先の大戦で、死神側は多くの人員を失った。隊士の補充は、護廷十三隊にとって急務である。真央霊術院の学生から特例にて入隊を繰り上げる等の策は講じているものの、そもそも死神を志望する者の絶対数を増やさないことには、根本的な解決には至らない。そこで白哉さんが提案したのが、流魂街の素質ある者を効率的に集める、というものだった。霊力を持つ者は、例え霊体であっても腹が減る。故に、朽木邸の食堂を流魂街の住人に開放することで、死神の素質がある者を集めるシステムだ。
とは言うものの、白哉さんの本心は別であるらしい。朽木家に古くから仕える家宰に話を聞いたところ「ルキア様や恋次様のように、ひもじい思いをする子どもたちを減らしたいのでしょう」とのことだった。これもまた、瀞霊廷上層部の入れ替わりによって動きやすくなった結果というわけだ。もちろん他の貴族たちからは、貴族の格を下げるとの理由から反発を受けた。しかしながら、四大貴族の一角である四楓院家の当主の賛成もあり、なんとか食堂の創設に漕ぎつけたとのことだった。
「なるほど、手間暇をかけてそれぞれに合う食事を提供する…ウマ娘の皆さんは、トレーナーに愛されているのだな」
「……ッ!!」
隣を歩いていたタキオンがビクッと震える。落ち着きなく、毛先を指で弄んでいる。
「タキオン?」
「な、何でもないよ。気にしなくて大丈夫だ」
確かに毛先も少し荒れているように見えたが、食事と睡眠の質を整えてあげればそれも良くなるだろう。タキオンは研究にのめり込むと、自分の身だしなみにも急に無頓着になる。気が付いたら髪がボサボサ、というのは日常茶飯事だ。しかも本人には自覚がないことがほとんどだ。
「ここが炊事場です。と言っても、前回もお使いいただいてると思いますけど、存分に使ってください」
「ありがとうございます」
さてメニューは、と手帳を取り出す。ここには、過去に作ってきた料理のレシピと、それを食べたタキオンの反応が細かに記載されている。
「食材は一通り揃っていますが、足りないものがあれば言ってください」
非常に助かりますとお礼をすると、ウマ娘は既に尸魂界でも人気だからそのお手伝いができて光栄だ、と返ってきた。ルキアさんはミーハー気質があるように感じる。もしかしたら、技術開発局の方が比較的優しいのにも、そういった理由があるのかもしれない。
食材を眺めつつ、カフェのトレーナーとメニューを相談していると、タキオンが袖をぐいぐいと引っ張ってきた。
「トレーナーくうん、君の顔を見ていたらなんだか眠くなってきたよ。ご飯ができたら起こしてくれたまえ」
「そうだな、できあがる頃に声をかけるよ」
研究続きで疲労も溜まっているのだろう。ろくに入浴もしていないだろうから、先ずはお風呂にでもと思ったが。
「あの、何か手伝いましょうか?」
「いや、カフェも流魂街を歩き回って少し疲れたろう。準備は僕たちでやっておくから、タキオンちゃんと寝ておいで」
常に担当ウマ娘のコンディションを第一に考えるのが、俺たちトレーナーの仕事だ。カフェのトレーナーは温和そうに見えて、そういう"トレーナーの矜持"については人一倍強いこだわりをもっている奴だ。
「布団の準備をしましょうか?」
ルキアさんが気を利かせてくれたが、タキオンは「すぐ料理ができるだろうからここでいい」と答え、早速椅子に腰かけてうとうとし始めた。
「すいませんルキアさん」
「いや、良いのだ。タキオン殿は研究続きなのだろう。食後に入浴できるよう、用意をさせておく」
本当に細やかな気配りができる方だ。改めて隊長たる者の器の大きさに感服する。
「何から何まで本当にすいません」
そう畏まらなくてよい、と穏やかな笑顔で言うと、ルキアさんは食堂を出ていった。尸魂界にも、ウマ娘を応援してくれる人は意外と居るらしい。
「さて…!」
「ここからは僕たちの仕事だね!」
各々調理器具と食材を持ち、意気揚々と調理に取りかかる。
―四十分後―
「ねぇ、ちょっと来てみてよ…」
料理があらかた完成し、二人を起しに行ったカフェトレーナーが声を潜めて手招きしている。何事かと思い付いていってみると―
「シャッターチャンスは共有しないとね」
タキオンとカフェが、お互いもたれかかりながらスヤスヤと寝息を立てていた。まあ確かに、シャッターチャンスではあるのだが。
「お前、ほんと相変わらずだよな」
「でも好きでしょ」
カフェトレーナーはニヤリと笑う。その問答に対して何も言い返せないのが、俺の良くないところだと分かっている。分かってはいるのだ。
「その笑顔、カフェちゃんの前で見せるなよ…」
多少の罪悪感を抱えながらも、ひとしきり撮影を終えると、成人男性二人で暫し二人の寝姿を微笑ましく鑑賞した。恐らく、アグネスデジタルはどこかでこの気配を感じているだろう。
「……起こすか」
「……うん」
炊事場の鍋からは味噌汁が吹き零れていた。
「「いただきます!」」
お腹が空いていたとみえ、二人とも寝起きとは思えないペースで黙々と箸を口に運んでいく。特にタキオンはまともな食事が久しぶりなのか、自然と笑みが零れている。
「うんうん、やっぱりこれだよこれ。流石は私のトレーナー君だ!」
「お気に召したようで何よりだよ」
食事はこれで良いとして、あとはお風呂に入ってもらって、少し休憩したらあっちに戻るか。トレーニングは明日から始めるとして、比較的急ピッチで仕上げないといけないだろう。身体への負担が気になるし、タキオン自身がここでまだ研究したいと言い出す可能性もあるわけで、万一の時にはマンハッタンカフェに引っ張って行ってもらって―と、聞き覚えのある声がした。
「ふむ、確かにバランスは取れているネ」
「うえっ、マユリさん!いつからそこに!」
「君たちが担当ウマ娘の写―」
「ああ分かりました分かりましたから!」
よく警備の厳重な四大貴族の邸宅に、こうもあっさりと侵入できたな、と思う。そういえばタキオンも俺の自室に侵入してきたことがあったし、科学者はすべからくセキュリティ突破のスキルを持ち併せているのだろうか。
「な、何しに来たんですかこんなところまで」
「いや、ウマ娘の食事メニューもこの際だから研究しようと思ってネ」
科学者の探求心はかくも恐ろしいものなのか。マユリさんは目をギョロリと動かし二人の食事メニューを見つめると、タキオンのから揚げをひとつ摘み上げ、ひょいと自らの口に放り込んだ。
「味は…なかなか―」
味の感想を言い終わらないうちに、勢いよく立ち上がったタキオンがマユリさんの胸倉を掴み、激しく揺さぶった。
「おい!なんてことをするんだ君は!科学者の大先輩と言えど、やっていいことと悪いことがあるぞ!吐け!今すぐトレーナー君の作った私のから揚げを吐け!」
「まあまあタキオン、後でいくらでも作ってあげるから!」
慌てて科学者の間に入り、タキオンを窘める。カフェとそのトレーナーは一連の流れを見て呆気にとられている。無理もない。
「マユリさんも、何でそんなことを」
「実際に食してみなければ分からないこともあるからネ。それに―」
毒々しい色の唇を舐めると、彼は続ける。
「私の食べたから揚げは"本来必要のない"モノだろう?」
そう、タキオンから取り上げられたから揚げ一個は、食事の栄養バランスから見ると余計な一個だった。暫く俺の作ったご飯を食べていないタキオンに対して、おまけとして盛りつけたものだ。
「マユリさん、そんなところまで分かるんですか…」
「まさか私が、完全な厚意のみでタキオン君のために研究室を誂えたと思っているんじゃないだろうネ。ウマ娘という未知の種族、この期間で存分に研究させてもらったヨ。尤も研究はまだ続いているんだが」
「まさかタキオンの身体に何かしてないですよね!?」
マユリさんとタキオンがニヤリと笑う。「残念だネ」「もう手遅れだよ、トレーナー君」各々がそう言うと、二人同時に全身を光らせた。やっぱりあんたが黒幕か。
「まぁ、科学者同士気が合うようで何よりです」
「トレーナー君も光って三人で写真でも撮るかい?」
「とりあえず眩しいんでそれ辞めてもらえます?」
「君だっていつも光っているくせに」とブツブツ言いつつ、不服そうな顔で二人とも自らを消灯した。俺はもしかして喧嘩を売られているのだろうか。
「しかし不思議だネ」
マユリさんは顎に手を当て、思案しているような素振りを見せる。
「タキオン君が居た研究室は、ウマ娘にとって理想に近い環境を整えてある。調合した食事も、君たちトレーナーが作るそれと栄養上は大差ない」
天才科学者・涅マユリ、その技術は短期間でそんなところまでたどりついていたのか。
「しかしながらタキオン君の身体のコンディションは、技術開発局に来てから徐々に低下していった。無論、多少の運動不足は認めるが、それを差し引いても腑に落ちない部分が多々ある。私の技術不足かそれとも―」
マユリさんはタキオンの方をじっと見つめる。
「"想いの力"かな?」
突然、食事の続きに戻っていたタキオンがゲホゲホと咽る。
「み、水を…トレーナー君、水を…!」
「まったく、いつもがっつき過ぎだって言ってるだろ」
ゴクゴクと水を飲み干すタキオンを横目に、マユリさんは満足そうに目を細め、「それが君たちの可能性か」と呟く。"想いの力"とは一体何なのだろう。「さあて」とマユリさんの視線がカフェに注がれる。
「君が霊圧を持つウマ娘、マンハッタンカフェか」
彼が朽木邸に来た理由に、マンハッタンカフェのこともあったのか。標的となった当事者とそのトレーナーは、当然ながら警戒の眼差しを向ける。
「君にも興味があってネ。食事が終ってからで構わない、私の研究室に来給え。悪いようにはしない。破格の待遇で迎えようじゃあないかネ」
「あなたにカフェを渡しはしませんから」
「おやおや、随分と私は嫌われているようだネ」
カフェのトレーナーとマユリさんが対峙し、暫し沈黙が流れる。と、その時マユリさんが何かに気づいた。
「チッ、カフェ君を研究するのはまた今度にしよう。また来るヨ」
彼が指をパチンと鳴らすと、何も無い空間が円状に切り取られ、まるでハッチが開くようにして中から幼い子どもの死神が顔を出した。
「おかえりなさいませ、マユリさま!」
まだあどけない少女が、あの十二番隊に所属しているというのだろうか。少女の死神は、切り取られた空間の先にマユリさんを迎え入れる。
「そうだ、君」
空間の向こう側から、マユリさんが俺を指さす。
「この後、技術開発局に来給え。大事な話がある。必ずだ、いいネ」
恐る恐る頷くと、ドアを閉めるように空間の穴が閉じられた。数秒遅れて、ルキアさんが滑り込むようにして食堂に現れた。
「今、涅隊長が居なかったか!?」
カフェが小さな声で「助かりました…」と漏らした。
―朽木邸・大浴場―
広い湯舟の中、アグネスタキオンは自らの左脚をさする。大きく息を吸い込むと、檜の香りを含んだ蒸気が肺を満たした。
「"想いの力"か」
吐き出す息とともに、呟く。涅マユリから伝えられた言葉が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。いつもなら大抵のことに素早く結論を出す彼女だが、思案に思案を重ねても、今抱えている問題の答えは簡単に出そうにない。伝えるべきか、伝えざるべきか。タキオンはある人物のことを考える。とうの昔に信頼などというレベルは通り越している。しかし、それを伝えることで彼がどういう反応をするのか、何度シミュレーションをおこなっても予想は全くできない。胸の奥がちり、と微かに痛む。これは思っていたよりも―
「厄介だねぇ…」
湯面に顎が触れるくらいまでとぷん、と湯舟に浸かる。そういう意味では、本当に彼のことを信頼できているわけではないのかもしれない。自分の身体を抱きかかえる。彼とともにレースを走ってきて、自分は思ったよりも感情的だと知って、思ったよりも弱いということを知った。独りになってじっくり思案すれば答えも出るかと思ったが、数十分経っても思考は前に進まない。身体は温まるを通り越して、熱を帯び始めていた。
「のぼせてしまうな」
髪を拭きながら脱衣所から出ると、朽木ルキアが出迎えた。手にもったお盆にはコップと水差しが用意されていた。
「随分と長く入っておられたのだな。水を飲んだ方が良いぞ」
気遣いができる、というだけではない。廊下でタキオンの姿を認めたルキアは、彼女の表情にかつて懺罪宮に囚われていた自分とを重ねた。信じるべき誰かに期待をしてしまう反面、自分に関わることで大事な人が傷ついていく恐怖と罪悪感。なぜウマ娘である彼女に。
「ありがとう」とお礼を言うと、タキオンはコップ一杯の水を一気に飲み干した。口を拭った彼女の目は、やはり少し曇っているように見える。
「気分が優れないのか?少し長く湯舟に浸かり過ぎのでは―」
「少し、私の話を聞いてもらっても良いだろうか」
ルキアは、まるでその言葉を待っていたかのように「もちろんだ」と微笑んだ。奇妙な組み合わせの二人は、湯上り処に腰かけた。「突拍子もない話ですまないが」と前置きをして、タキオンが話す。
「ウマ娘は誰かの"想い"を背負って走る、という話は知っているかい?」
「ああ、無論だ」と答えるルキアの瞳は柔らかな光を帯びている。
「つまり私たちウマ娘にとって、誰かからの想いは力になるというわけだ。その事実は、あるウマ娘の軌跡を目の当たりにして確信に至った。恐らく彼女は、誰かを想う心も力に変えているだろう」
タキオンは尚も続ける。
「私の可能性は、そこにあると考えているんだ。正直、私は私自身の想いを力に変えられるほど、整理がついているわけじゃない。だからあえてこの二週間、誰との接触も断って自身に向き合ってみたんだ。次のレースはカフェも出る。彼女に勝つためには、私の想いに答えを見つけなければいけない」
話に耳を傾けながら、ルキアは空のコップに水を注ぐ。
「しかし、未だ一向にその答えは見つからないんだ。何度思考を重ねようと、分からない。私はこの先も想い続けるべきなのだろうか。例え残酷な未来が待ち受けていても、この想いは伝えるべきなのであろうか。と、君に尋ねるのもお門違いかもしれないのだが」
タキオンはそこまで一息に話すと、水を一口くぴりと飲み込んだ。話の内容はてんで纏まっていない。恐らく、理解できない感情の動きに混乱しているのであろう、とルキアは思った。
「そうだな…実は私も、想い想われることに苦しんだ時があってな」
まっすぐ前をみて、ルキアは言葉を紡ぐ。
「私の周りは本当に莫迦者ばかりでな。私一人のために、命を懸けるような奴らなのだ。放っておけば良いものを、勝手にこちらに踏み込んできてな」
タキオンは緋色の瞳で、静かにルキアを見つめている。
「結局、私は目を背けていただけだったんだ。誰かを想い、誰かの想いを背負うということから、逃げ続けていただけだったんだ」
雨の記憶。脳裏に深く刻み込まれた、最後の言葉。あの雨の冷たさを今でも鮮明に思い出せる。ルキアは自分の右手を眺め、ゆっくりと握った。
「だが今は違う。想いは、心は確かにここにある。だから私はどんな絶望の中にあっても、可能性の光を手繰り寄せようと思うのだ。実際、オレンジ頭のたわけが何度もそうしてきているからな。私も負けておられんのだ」
双極の丘、抱きかかえられた腕の感触。夜虚宮の冷たく固い床。思い返せば―「一体何回、死にかけたんだろうな」とルキアは苦笑する。幾多の死線を乗り越え、想いの持つ力は絶望を覆すということを身をもって体験したルキアの言葉は力強かった。
「そうか、私はまだ目を背けているのかもしれない。信じようと思っていて、どこか心にしこりがあるのかもしれないな」
とすればそれは―タキオンは自分の左脚を苦々しく見つめた。私がここまで走ってこれたのは、走り続け可能性の果てを見たいという想いを、彼が信じてくれたからだ。翻ってそれは、彼がウマ娘として走り続けるアグネスタキオンに想いを乗せているということになりはしないか。だからこそ、私は今まで無敗のウマ娘としてここまでやって来た。可能性の果ての果てに、私が走れなくなるという未来が訪れた時、それでも彼は私の隣に居てくれるだろうか。そんな状態の私に、何の可能性を感じてくれるだろうか。確認しなくてはならない。でもどうやって。
「ああ、やはり私は……湯冷ましついでに、屋敷の中を見て回っても?」
「うむ。ゆっくり見て回るといい」
タキオンの後ろ姿を見送りながら、ルキアはある上官のことを思い出す。彼であれば、もっとうまく彼女にアドバイスできていたであろうか。しかしながら、悩むタキオンの姿を放っておけなかったのも事実で、そうであるなら私にもお節介な上官の想いが受け継がれているのだろう、と思った。
水差しは、いつの間にか空になっていた。
―数十分前・朽木邸炊事場―
食器が軽くぶつかる音と、流れる水の音。タキオンがお風呂に向かい、そのトレーナーが技術開発局に向かった炊事場では、カフェとトレーナーが食事の後片付けをしていた。
「ありがとうカフェ。おかげでもう片付きそうだよ」
「いえ、準備は全て任せてしまいましたから」
片付けが終わったらコーヒーを飲もうと提案するトレーナーに、カフェはにっこりと頷く。本来ならあちらへ戻ってトレーニングしたいところではあるが、まだ話ができていないお友達も居るため、カフェの本心としてはもう少しここにとどまっておきたかった。勿論その想いはトレーナーも理解しており、どうにか方法があればと考えているところだった。
しかし、カフェにはもう一つ気がかりなことがあった。
「タキオンちゃんのことが気になるかい?」
カフェは目を少し見開いて、担当トレーナーを見つめる。
「あなたには何でもお見通しなんですね…」
「一応、これでも担当だからね」
正直、トレーナーのことは口が裂けても鋭いとは言えなかったが、やはり私の状態の変化には敏感に気づいてくれる、とカフェは思った。
「タキオンさん、トレーナーさんに何か隠していることがあるんじゃないっかって思うんです。それが何なのか、最近はあまり接する機会がなくて分からないんですけど」
「僕もそう思う」と、カフェのトレーナーも同意する。しかも彼はタキオントレーナーの焦りをも感じ取っていた。アグネスタキオンは未だ無敗。世代最強とも噂される、注目のウマ娘だ。それは、皐月賞後の引退騒動も影響していた。幻の三冠馬となる運命のタキオンを、それでも信じて支え続けた友人の担当トレーナー。タキオンの脚を気にしながら勝ちを積み重ねていくのには相当な心労があるだろう。であるが故に、勝つことに執着しすぎている部分があるように思う。無敗ウマ娘のトレーナーとしての自分がどうやってタキオンを勝たせてあげられるか、ということに集中しすぎて、タキオンの方を全く向いていない。だからタキオンの微妙な変化にも、身体的な部分は即座に気付けるものの、心情的な部分には気付けないでいるのではないだろうか。
「けど、今はあの二人を信じるしかないんじゃないかな」
次のレース。カフェとタキオンは直接対決の場を迎える。そういった理由で、僕もカフェ自身もタキオン陣営と安易にレースについて話せないというのが現状であった。正直もどかしくもある。
「そうですね。私も心配ですが、タキオンさんは必ず仕上げてくると信じます。私が越えたい背中は、あの時からずっとタキオンさんですから」
弥生賞からずいぶん経ってから訪れたリベンジの機会。あの時一度も追いつけなかったアグネスタキオンの背中、それを追い続けてきたカフェはここにきて最高ともいえる仕上がりを見せていた。時々見せる執念の片鱗は、担当トレーナーもしばしばゾクッとさせる雰囲気すら纏っている。
「必ず、タキオンちゃんを追い越そう」
担当トレーナーの僕ができることは、カフェのモチベーションを維持し続けることだ。
「はい。絶対に、タキオンさんのその先へ…!」
静かに、しかし淀みなく答えたカフェの瞳は、今までにない輝きを帯びていた。
―同時刻・技術開発局―
不気味な肉塊が、プカプカと培養液に浮かんでいる。各種の計器類は様々な色に光っており、さながら夜景のようである。俺は、何故かマユリさんに呼ばれてここに居る。
「まずは紅茶でもどうだネ。なァに、変なものは入っていないヨ」
ニヤニヤとした笑みを崩さない彼に問いかける。
「大事な話って、何ですか」
こちらにはあまり時間がない。早くタキオンの調整をしなければならない。レース本番までにはあまり時間がない。ライバルであるマンハッタンカフェの仕上がり具合も、俺に焦りをもたらした。
「全くせっかちだネ。では本題に入ろうか」
ふっと笑みを消した彼は、静かに言い放った。
「タキオン君の脚を、改造(なお)したいと思わないかネ」
―第二幕・終―
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