【小説】 『空気売ります』
珍しく原稿が早く書き上がったから、6時きっかりに「切らないタイプ」のタイムカードを切ることができた。
今日は火曜日。早く帰って寝なくちゃいけないけれど、こんな日には少しばかりの遠回りをして人生を豊かにしなければならないような気がして、いつもは降りない駅で降りた。
駅前のロータリーはどこも同じようでつまらない。
ついつい「スキップ>>」したくなってしまうのを抑えて、早歩きを。
大きな太陽がビルの避雷針に突き刺さって沈んでゆく。
向かうのはGoogleマップで評価が高かったコーヒーショップだ。
そこへ行って地球の裏側の豆を挽いたものなどを飲んでいれば、誰かが僕に生きる意味とやらを与えてくれそうな気がしたからだ。
ビルの隙間をひゅっと吹く風が、前髪を少しだけ持ち上げて戻した。
それを何度も繰り返されるので、眉をしかめて左を向いた。
目があった。
もはやレトロを通り越して廃墟のようなそこは、一見すると周囲のシャッターたちに馴染んでいるのだが、なぜだか僕はその奥にかすかな息吹を感じた。
店先には手書きの看板がひっそりと立てかけられている。
店の佇まいには絶妙に合わない「レトロ風な」看板だ。
『空気売ります』
その文言の意味は分からぬが、なにか売り物があるならこの建物に入っても正当化できるだろう。
コーヒーショップのことなど、一瞬で脳内から消え去った。
音を立てないように努めてもどうしても鳴く引き戸をずらし、薄暗さの中へ。
目が慣れる前に鼻が反応した。木と、畳と、かびのにおい。
なんだかなつかしさを覚える。
人の気配はない。
少しすると、暗順応した僕の目は雑然とした部屋の中に、桐の薬棚のようなものを捉えた。
小さな引き出しが碁盤のように並ぶ。
そのひとつひとつには小さく丁寧なラベルが貼られている。
「午前5時、冬の下宿」
「ただ五月雨降る夜」
「宵の顔をした朝方の月」
単語ひとつひとつの意味を拾うことはできる。
しかし、僕の心に留まるかといえば、そうでもない。
それはさておき、引き出しの中には何が入っているのだろうか。
壁には「500円」とだけ書かれた札がぶら下がっているのみで、説明などはない。
きっとこの引き出しの中身が500円で売られているのだろうということは想像に難くなかった。
お香だろうか、万年筆のインクだろうか。
考えを巡らせながら、試しに「朝7時、プールの朝」の引き出しに触れる。
細く冷たい金具に指をかけ、手前にひくと、すっと引き出しがこちらにずれ、意外なものが姿をあらわした。
「なんだこりゃ」
瓶だ。手のひらで握れるサイズの空瓶。
口はコルクで留まっているが、なにかが入っているようには見えない。
こんな小さな瓶が500円とは、なかなかいい商売だ。
あいにくこの手の雑貨には興味がない。
瓶と引き出しをさっと元に戻し、踵を返す。
引き戸に手をかけた瞬間、『空気売ります』の文字が脳裏に浮かんだ。
好奇心に、僕の短い後ろ髪をひかれた。
500円なら失ってもそこまで惜しくない。
むしろネタになるのならコスパは悪くないだろう。
先ほど閉じたばかりの引き出しをがっと引く。
カラカラと空き瓶が音を立てる。
ラベルによると、この中には「朝7時、プールの朝」の空気が入っているようだが、まぁ嘘でもいい。
500円玉を棚の上に置かれた貯金箱に放り込み、今度こそ滑りの悪い引き戸を開けきった。
太陽の姿は見えないが、西の空にほのかな橙色が残る。
後ろ手に戸を閉める。
そのままの勢いで瓶のコルク栓を引き抜いた。
異世界に飛ばされるわけでも、ジーニーが出てくるわけでもなかった。
鼻を近づけても、なんのにおいもしない。
「やっぱり、詐欺まがいの商売じゃないか」
だが、このレベルだともはや騙される方が悪いだろう。
仕方ない。小物入れにでもするか。
小瓶をポケットにしまい、僕の「特別になるはずだった」火曜日はこうして幕を閉じた。
その日の夜は、珍しく良く眠れた。
夢も見ないほどの熟睡ぶりだった。
アラーム前にぱっちりと開いた眼に自分でもびっくりしつつ、窓をあける。
真新しい朝がなだれこんできた。
胸いっぱいに息を吸い込むと、水色の空気が肺を満たすような感覚。
日差しはもう僕の肌をじりじりと焼き始める。
夏がすぐそこまできている。
胸がそわそわする。
この感じ。まるで…
「プールの授業がある日の朝みたいだ」
高揚感と、緊張と、遠くの塩素が香る。
いつもならなにも思わなかっただろう。
なるほど、そういうことか。
言葉ひとつで、意識一つで見える景色は変わる。
きっともうあの店に行くことは無いだろう。
けれど、昨日から僕の世界が少しだけ鮮やかになったのは事実だ。
言葉とはそういうものだ。
一つあるだけで誰かの今後を、そして過去すら変えてしまえる。
果たして僕が生み出す500円分の文字には、そんな力があるんだろうか。
わからない。
自信はない。
でも、あの詐欺まがいの小瓶のような文章を書きたい、本気でそう思った。
そして胸いっぱいに「遠く入道雲を望む、出社前の空気」を吸い込み、僕は身支度をはじめた。
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