【小説】あの「愛してる」を取り消したい,なんて
歩行者用の信号が赤色に変わる。人の群れが静止する瞬間。行きかう車の中に赤色の乗用車を探してしまうのは悪い癖だ。見つけたってどうにもならないのに。
あれは何年前だったっけ。
あの時は、顔も、声も、場所も、記念日も、好きだという思いもはっきりしていたのに、今となってはすべてが輪郭を失っている。なんとなく、色や形は分かるのだけれど、肝心の部分がどれもはっきりしない。
確かに僕は、彼女のことが好きだった。 はずだ。
1日しか休みがなくても、たった数時間しか一緒にいることができなくても、なんども高速バスで会いに行った。バスの窓枠を等間隔に流れる白やオレンジの光を見つめる3時間が好きだった。
地方にしては立派なインターのバス停。いつも彼女は駐車場で待っていた。赤い乗用車の運転席で、少し顔をほころばせる彼女を見つけると、少しだけ安心した。背後から隠れて驚かせたりはしない。反応が分かっているから。
彼女は僕にやさしかった。きっと僕も彼女にやさしかった。それ以上でも、それ以下でもない。僕らは決して喧嘩しなかった。
声を荒げることもない、平穏な日々。
でも、感情が揺れるほどの喜びや悲しみを共有できたことは一度もなかった。
僕らは二人とも優しくて、臆病だった。
だからこそ、互いの核心に触れられたことはなかった。
タイトルの読み方すらわからない洋楽をプレイリストに入れてみた。目についたことすらなかった服のブランドに足を運んだ。彼女となにもかも違った僕は、ただがむしゃらにさまよい歩いた。
きっとこの先のどこかに、交点があると信じていたのだ。
でも僕は嘘をつくのが得意じゃない。他人にも、自分にも。
頑張って纏ったメッキも、いつか剥がれる。
彼女のお気に入りのあの曲は、いつの間にかプレイリストから消えた。
3時間悩んでクレジットカードで買った服は、クローゼットの左奥、定位置で埃をかぶっていた。
少しづつ、本当の気持ちに気づいていた。
でも、僕はやめなかった。彼女のことを好きでいようと努めることを。
そして、彼女に好きでいられることを。
僕はその関係にすがっていたのだ。
そこに深い意味なんてないし、吹けば飛ぶようなものだったけど、僕は執着していた。
「誰でもよかった」なんて言わないけれど、ただ認められたかった。
関心をひきたかった。
僕はまだ、子供だった。
今思えば、彼女も気づいていたのかもしれない。
ドライブ中の沈黙、別れ際の一瞬、君に合わせて笑う僕の引きつった顔。
そのひとつひとつに僕らの限界が見え隠れしていたことに。
「誰でもよかった」なんて言わないけれど、彼女でなくてはならない理由がないことなんてとっくに気づいていた。
それを見透かしたのか彼女は、確かめるように「好きだよ」なんて繰り返した。
ずるい、と思った。
僕は負けぬよう「愛してるよ」なんて目を合わせずにつぶやいた。
愛と恋の区別もつかぬまま、暗がりで肌をなぞったあの夜に。
だからいま、隣にいる「君」には軽々しく「愛してる」なんて言わない。
あの夜の「愛してる」に縛られ、今も生きているから。
これはある種の呪いだ。
ただひとつ、ずっと胸に取り残されたままの「愛してる」を消したい。
時間が経てば経つほど、過ぎ去った記憶はかすれていく。
それでもその一言だけは僕の胸に重しとなって残り続ける。
向こう岸の信号が青に変わる。
視界の端からゆっくりと消えてゆく赤い車。
はやく居なくなれと固く結ぶ口とは対照的に、僕の目はテールランプを見つめたままだ。
ちらりと光る助手席の窓ガラスには、困ったように窓の外を見つめる僕の顔と、ため息が映っていたような気がした。
いつか「君」に「愛してる」と言える日が来るのだろうか。
いかなくちゃ。重い一歩を踏み出した。
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