SS『やり直しの小部屋』
アパートを借りた。
学生時代に住んでいた、大学の側にある小さなアパートだ。
懐かしさにふらりと立ち寄ると、築数十年の古いアパートは空室だらけになっていた。
大家は入居者不足に悩まされているのだろう。当時は学生専用で、社会人は契約することができなかったが、今では学生だけに限らず、広く一般に向けて入居募集されていた。
見れば、僕がむかし住んでいた部屋も空室になっている。
もう一度、この部屋で生活することができる。
その思いつきを、どうしても実行したくなってしまった。
大学生だった頃、僕は片思いをしていた。
高校を卒業する直前、同級生に告白された。両思いだった。僕と彼女は県外の別々の大学に進学し、遠距離恋愛が始まった。そう思っていた。けれど、彼女から僕に連絡がくることは一度もなかった。次第に僕からも連絡しづらくなって、いつの間にか疎遠になってしまった。
だけど、僕は、ずっと彼女のことを思っていた。
入学して2、3年は、遠距離恋愛中の一途な男を演じた。やたらと女の子を紹介されるのが鬱陶しかったのだ。地元に彼女がいると言えば断る理由にできた。コンパにもサークル活動にも気持ちが向かない。休まず講義に出席し、単位取得だけをこなす日々。だからといって勉学に勤しんでいるわけでもなし。そんな渇ききった学生生活で、ふと目につくのは、ふたり並んで仲良くノートをとる二人連れ。大学からの帰りがけにスーパーで仲良く買い物する同棲カップル。毎日のように目にしていると、やっぱりなんだかどうしても、さみしくなってしまうのだった。
彼女が側にいてくれたなら。
どうにもこうにもひとりぼっちがつらくなってきたとき、たまたま同じ学科に僕のことを気に入ってくれた女の子が現れて、そのまま流されるように付き合うことになり、なし崩し的に同棲を始めてしまった。
あの頃の僕は、ずっと、目の焦点を合わせないようにしていた。決して耳をすまさず、常に意識を遠くして。
狭い台所で不器用に味噌汁を作る女の子の背中に、ほんの数週間だけ付き合った大好きな彼女の影を重ねる。
まな板と包丁が奏でるこの音は、僕の大好きな彼女が野菜を切る音。
玉ねぎの煮えるこの匂いは、僕の大好きな彼女が料理をする匂い。
小さなこたつに夕食を並べ、僕に向かって楽しげに話しかける人間の、顔も、声も、色も、匂いも、僕は何も覚えていない。
全部、大好きな彼女に置き換えて暮らしていたから。
あの日々は、ニセモノだった。
そこに本物の彼女は居なかった。
だから、僕はやり直す。
そのために、この部屋を借りたのだ。
あとは彼女をここに連れてくるだけ。
今からその計画をたてようと思う。