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日本人と質問行為

この記事を読むと、

・質問してみようと思える
・質問を考えるプロセスを大事にできる
・文化的背景について意識した上で質問できる


こんにちは。

さてさて、今日は普段から何気なく行っている「質問行為」に関する投稿です。

この質問行為も、日本人ならではの傾向が隠れています。
それを踏まえて、より多く質の高い質問ができるようになるための方法を一緒に考えませんか?

質問とは

まず質問の定義をしておきましょう。南(1985)によると、質問は以下の三点の条件によって成立すると言われています。

1.「相手の存在」
2.「問題の提示」
3.「情報提供の要求」

これらの条件ですね。つまり、相手がいる前提で、何かしらの取り組むべき問題を提示し共有する、そして相手からの情報の提供を要求する行為を質問と読んでも良さそうです。

ここに付け加えるなら、

4. 機能や応答がその発話者の意図によって変化する

という点でしょうか。その目的によって、単に事実確認をするだけの機能である「確認要求質問」や、受け手に説明を求める機能の「説明要求質問」が発信されます(国立国語研究所, 1960)。

これらの種類に加えて、質問にはその質の高低があります。質の高い質問とは、

より深い思考や高次な認知活動を促進する作用のある質問(King, 1995)

指します。この質問を有効活用すると議論の深化やよりスムーズな問題解決が可能になります。

私たちはこれらの多様な機能や質を使い分けて質問行為を行なっています。

質問行為を遂行するための能力について

次に、その質問行為を遂行するための能力について共有します。

まずは、「質問生産能力」という能力です。これは、

問題を多角的に分析し、
必要な情報は何か導き出す

という能力を指します。

人が質問をする際には、意識的・無意識的どちらにせよ、まずは疑問感を抱くことが必須です(Dillon, 1998)。そのあとに、なぜ質問をするのか、質問の必要性を考える必要がありますね。この質問行為の意義を見つけ出すことが出来る能力が重要です。

もう一つは、「質問伝達能力」です。

適切なタイミングで適切な人に
質問をする判断を下す能力

がこれに当たります。この能力無くしても、自分が欲しい答えを受けることができる可能性は低くなります。

上記の二つの能力を駆使して、私たちは質問行為を遂行します。

ですが、日本人だからこそ直面する「質問行為に関する文化的な問題」に関しては、あまり意識している人が少ないように感じます。

以下では質問行為に関する日本人としての問題について考えます。

日本人の質問行為

日本語母語話者として、みなさんは日本語ベースにコミュニケーションをとり、その中で質問行為を行なっていると思います。

ですが、その日本人の質問行為に関して、いくつか問題が考えられます。
それらの問題は以下の三つです。

1.質問の頻度が低い
2.質問行為自体へ否定的な感情を抱く場合がある
3.質の高い質問生産能力が育ちにくい

1.質問をする頻度が低い

まず一つ目は、そもそもの「質問をする頻度が低い」ということです。

Brown&Levinson(1987)によると、人間は自分の所属する社会的グループにおいて、自分が他人にどう扱われたいか、そこに根本的な欲望があると言っています。

日本人はNegative Face Holder(ネガティブフェイスホルダー)という、「他者からの必要以上の介入を嫌う」傾向が強い人が多い文化的背景を持つと言われています。

ということはつまり、相手への情報提供を強制する行為である質問行為を嫌う状況が、そうでない文化で育った人と比べると多い可能性が高くなります。

質問として他者へ返答を要求する場合、もしかしたらその相手の気分を害するかもしれないという意識が働くのです。結果的に、質問の頻度自体が低くなります。

実際に教育現場で学生の質問の頻度が低いと指摘されています(柴田, 1991; 東谷, 2007)。

学校を卒業し就職したあとにも質問行為の頻度を下げる問題があります。それは年齢差です。

日本人は年齢差を基準にコミュニケーションスタイルを変えます。よって、年齢による質問発信の制限も考えられます。年上の先輩や上司に対して、どれだけ自分にとって有益な情報を得るためとは言え、気軽に質問できる人はなかなかいないと思います。

とにかく日本人は質問行為を実行するために考慮すべき項目が多く、その影響で質問の頻度が低いのです。

2.質問行為への否定的な感情

上記のような日本人的な思考の影響は、質問の頻度だけでなく、その行為へ「否定的な感情」を抱く可能性もあげます。

上記のように必要以上の質問を避け続けると、今度は質問行為自体に対して否定的になってしまいます。

例えば、学校においても、授業中に質問をする他のクラスメイトに対して、「変わったやつ」や「浮いている」と質問をする学生へネガティブなイメージを持つ学生が一定数いるようです(祐宗, 河本, 浜崎, 川崎, 西川, & 高野, 1996)。

このような環境で育ってしまうと、何か疑問に思っても自ら質問することを良しとしない人が大勢育成されてしまう可能性があります。

3. 質の高い質問の生産能力が育ちにくい

そして、このような悪循環は、最終的に日本の教育環境では質の高い質問生産能力が育たない、このグローバル社会では致命的な結末を招きます。「日本=質の高い質問生産能力が育ちにくい」という構図の出来上がりです。

もし、例えば卒論執筆や卒業研究のようなアカデミックな状況、つまり質の高い質問を考える行為が重要だとされる活動をすることになったとしましょう。

しかし、単純な質問すら頻度が低いと、議論を深めるための質の高い質問なんて飛び交うわけもなく、その研究成果のレベルも当然下がります。

大学生相手のプレゼン指導の際には、質疑応答で「質問されたくない」「質疑応答をできればやりたくない」と思う学生がとても多くいます。これも、その日本人的思考の影響の結果です。

本来、プレゼンはプレゼンターとオーディエンスのコミュニケーションの場です。質疑応答で質問が来ないプレゼンは内容が伝わっていないとも同義であり、質問をされることは聞いてくれていたことの証明にもなるので本当は喜ばしいことなのです。

「質問をすると相手を困らせるかもしれない」、「自分の質問には価値がないので邪魔をしてはいけない」と思ってしまうような、過度に相手に気を遣うことこそコミュニケーションや議論の質を低下させているのです

ではどうしたら良いのでしょうか。

日本人として質問行為とどう向き合うか

結論から言うと、教育的側面、また個人レベルからのアプローチをもってして、「質問をする」ことへの意識を改革する必要があると個人的には思います。

上記のような項目に関して、日本人的感覚が質問行為に与える影響がいかに大きいか再確認する必要があることを述べました。これは思ったより深刻な話です。

僕自身、留学先のアメリカでは、周りの質問の質の高さと、その発言のスピードにいつも焦りを感じていました。

海外、特に英語母語話者は質問の質も量も正直日本人のそれとは比べ物になりません。

ただポイントは、これは単純な人種の比較ではないということです。比較対象は日本語母語話者と英語母語話者が受ける「教育の違い」です。

つまり、教育の影響が大きいと言うことです。

ただ教育を変えられる力を持つ人は限られます。そこで僕はいち教員として、質問行為の重要さをこれからも学生に伝えます。

具体的にどう質問行為に関する訓練をしているかは、長くなるので別の記事にしたいと思います。(そこまでこの記事の需要があるか微妙なのも理由ですが、、、)

あとは個人レベルで質問行為を増やすためのしかけを作り出すことが大切です。

もし部下や後輩がいるなら、上の立場である自分からたくさん質問をしてあげることが下から上へ質問をするハードルを下げることにつながると思います。

個人的にですが、僕の方がかなり年下でキャリアも薄い教員であるにもかかわらず、いつもよく色々と質問をしてくれる先輩教員がいます。

その人に対しては、僕からも質問がしやすいです。逆に僕に対して質問をまったくしない、自分語りが多い人に対しては、僕から質問をする気にはあまりなれません。

僕自身もそうですが、染み付いた習慣はなかなか変えられません。ですが、自分の周りに対してなら、小さいながらも何か違うことができる気がします。

終わりに

今回の記事を読んでくれたみなさん、どうでしょう?内容には納得ですか?

もしそんなことない!と思ったり、賛成してくださる場合や、自分はこんなこと気をつけてますということがあれば、ぜひ共有して頂けると幸いです。

今日も勝手に語りましたが、いつも見てくれてありがとうございます。

ではみなさん良い1日を!!


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