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8月6日を東京で迎える

私が8月6日を広島市内で迎えたのは、10回も満たない。
広島市外で生まれ育って、高校で広島市内に出てきて、大学は県外、就職は東京。高校3年間は部活の関係で平和記念公園内で8時15分を迎え、大学生や社会人になっても、都合がつけば8月6日は広島で迎えていた。

私自身、家族に被爆者がいるわけではない。周りにも被爆者はいなかった。大朝出身のばあちゃんが「きのこ雲言うんかいねぇ、あれが見えたんよ」と小さい頃の記憶を教えてくれたくらい。郡部生まれの私にとって、原爆は近い存在ではなかった。

それが近くなったのは、舟入高校演劇部に入ってから。長い間、コンクールで原爆劇を上演し続ける舟入高校演劇部にとって原爆や8月6日は切っても切り離せなかった。そして3年間、舟入高校演劇部で濃密な時間を過ごした私にとっても、原爆や8月6日は特別なものとなった。

二度と繰り返さんために
原爆の悲惨さを忘れない
広島から世界に平和を

間違ってはいない。広島出身者として当たり前のこと。だけど、これが私には重かった。

8月6日の広島は独特な空気が流れている。
今年はどうだか分からないが、街には街宣車が走り、市民団体が運動し、観光客で溢れ、しかし根底には怒りや悲しみが照りつける暑さとともに立ち込めている。この空気を知らないと、広島の8月6日は語れない。広島に住んどる人間じゃないと、8月6日は特別じゃないんよね。東京じゃあ8月6日が何の日か分からん人もおるんじゃろ。原爆を知らない人達への変な怒りのようなものもあった。

でもその怒りや平和のために何かせんといけんという気負いのようなものは、「社会正義に尽力する私」を満たしてくれたものの、とても息苦しかった。子どもが産まれて東京で8月6日を迎えるようになって何年か経った今、ほっとしながら平和式典の様子をテレビで観ている。
広島から心が離れたわけではないけれど、8月6日を広島で迎えることは私にとってしんどかった。被爆者の怒りや悲しみ、広島の街を襲った惨劇を受け止めきれなかった。
8月6日、その日だけじゃない。常に原爆とともに日常が流れる広島がしんどかった。

なんだか、今やっとそのことが言えるようになった。

今年の8月6日8時15分は、テレビの前で4歳の子どもと迎えた。
「8時になったら、お参りせんといけんけぇね。広島に爆弾が落ちて、たくさんの人が死んだんよ。だからこの日はたくさんの人が集まって、死んだ人にお参りするんよ」4歳児にどう言ったら伝わるか、考えながら言ってみた。
朝食のヨーグルトを食べながら、子どもは式典の様子を見ていた。
「もうすぐお参りの時間じゃけぇ、立って目ぇつぶるね」
私がそう言うと、こどもは
「○○ちゃんもやろっかな」とニコッと笑って、私の隣で手を合わせていた。

まだ原爆がどんなものか分からない。だけどこの子にも、原爆を、8月6日を伝えたいとふと思った。私にとって重荷だった筈なのに。もっと身近なことで良かったんだ。小さなことから平和を伝えていけばいいんだ。この子が原爆や戦争や、世界の紛争について考えるための、対話するための手助けをしたい。

来年の8月6日は広島で、子ども2人と一緒に迎えたい。素直にそう思った2024年8月6日。

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