ツェランの詩「ポプラの木よ」―おまえの葉は白く闇を見つめている
パウル・ツェランの母親は、1942年の末か1943年の初めに、ナチスの強制収容所で首を銃で撃たれて死んだ。「仕事が出来なくなった」(Felstiner, S. 42)というのがその理由だ。
1945年に書かれた詩「ポプラの木よ」は、亡くなった母親を思う詩だ。ツェランの第1詩集『罌粟と記憶』(1952)に収められている。
ここではこの詩を訳し、解釈する。
■ヨジロー訳
■語句
題名「ポプラの木よ」――元の詩には題がない。「ポプラの木よ」は訳者による。
ポプラの木――原語はEspenbaum。中村(33頁)と森(83頁)は「ハコヤナギ」と、相原(26頁)は「ヤマナラシ」と訳している。
■解釈
第1連。夜、散歩に出る。風にひるがえるポプラの葉の裏側が白く見える。「私」はそれを目にすると、母親が白髪になるまで生きていられなかったことを思う。
第2連。ツェランの故郷チェルノヴィッツは、彼が生まれたときはルーマニアに属していた。第2次大戦後、ウクライナ領となった。故郷の平原に咲き誇るタンポポを見ると、「私」は母親の金髪の髪を思い出す。
第3連。雨雲がぽつりぽつりと泉にしずくを落とし始めている。それを、雨雲が「泉に近づくのをためらっている」と表現している。雨のしずくを見て、母親の涙を思う。「みんなのために」は、最終連に「私のやさしい母」とあるので、同じ苦難を受けている「みんなのために」だろう。
第4連。夜。「まるい星」はある程度の大きさを感じさせるので、月のことだろう。「金色のリボン」は、月の周りの雲に光が映って、それがリボンのように見えるのだ。美しい情景だが、丸い月を見て「私」が思い出すのは、母を殺した拳銃の鉛の玉だ。
第5連。歩いていると、廃墟となった家の、蝶番のはずれた樫の扉が見える。樫は堅い木だ。樫で作られた扉は重い。蝶番がはずれていては、なかなか動かせない。それは自宅の扉ではないのだが、ふと思ってしまう、「このままでは母が入ってこられない」と。
「私」は、もぬけの殻のようになって歩いている。昼も夜も、晴れた日も雨の日も。何を見ても、死んだ母親を思い出してしまうのだ。
■おわりに
各連の2行目は、「私の母の髪」「私の金髪の母」「私の静かな母」「私の母の心臓」「私のやさしい母」となっており、すべての「母」に「私の」がついている。母親への強い思いがわかる。
素直に書かれた単純な形式の詩であるだけに、いっそう痛ましさが感じられる。
■参考文献
パウル・ツェラン『パウル・ツェラン全詩集Ⅰ』中村朝子訳、青土社, 1992
相原勝『ツェランの詩を読みほどく』みすず書房、2014
森治『ツェラーン』 清水書院、1996
Felstiner, John: "Paul Celan. Eine Biographie", Deutsch von Holger Fliessbach, München 2000
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?