金子みすゞの詩「こだまでしょうか」―「いいえ、誰でも」ってどういう意味?
東日本大震災のときに、テレビから民間企業のコマーシャルがいっせいに消えた。その代わりに延々と聞かされたのが、公益社団法人「ACジャパン」のCMだ。金子みすゞの詩「こだまでしょうか」もどれだけ聞いたことか。
印象的な詩だと思ったが、最後がよくわからなかった。わからないので、「誰でも」っていうのはあまり適切な表現じゃないなって思った。
最近、この詩を読み直す機会があったので、「誰でも」ってどういう意味なのかをあらためて考えてみた。
■金子みすゞ「こだまでしょうか」
■解釈
「いいえ、誰でも」はどういう意味なのか。
「いいえ」があるから、こだまではないと言っているのは確かだ。「誰でも」がわかりにくい。
詩の各連は独立しているのではなく、つながっている。人を誘う、けんかになる、絶交する。でもやっぱりさびしくなって謝る。そんな流れだ。
人と関わり、いさかいをし、袂を分かってしまう。でも、やっぱり人を求めるから、仲直りする。
人と人との関係はそんな形を繰り返す。それぞれの人によってさまざまな状況があるだろう。しかし、根本においてはこのようなパターンを繰り返している。
この詩はそのような人間の関わりの原型を抽出しているのではないか。
「「遊ぼう」っていうと/「遊ぼう」っていう。」などと言われると、まるでこだまが返ってきているようだ。でも、それは一人遊びではない。最初に「「遊ぼう」っていう」のが誰かで、それに応えて「「遊ぼう」っていう」のは別の誰かだ。
誰もが誰かと遊びたい。誰もが誰かを求めている。誰もが一人でいられない。
「誰でも」というのは、「誰でもそうなのよ」ということだ。「誰でもさみしいのよ」ということだ。
金子みすゞは、自分もそうだし、他の人もみんなそうなんだと思っている。
■おわりに
と、こんなふうに解釈してみた。でも、やっぱり「誰でも」はわかりにくい。もっと適切な表現がなかったんだろうか、と思う。「こだまでしょうか」まではすばらしいのに。
とはいえ、僕にもほかの表現は何も思い浮かばない。「いいえ、誰でもそうなのよ」としても、わかりにくさには変わりない。
とそう考えて、ふと気づく。「誰でもそうなのよ」ではなく、「誰でも」ならば――句点で終わってはいるが――最初の一行に続いていくことができるのではないか。
誰でも「遊ぼう」っていうと、誰でも「遊ぼう」っていう。
誰でも「馬鹿」っていうと、誰でも「馬鹿」っていう。
そんなふうに続いていくんだ、きっと。
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