
斎藤茂吉の短歌「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」
斎藤茂吉の歌で知っているのは、
みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
のような母親の死をうたった歌だ。昔、国語の教科書で読んだ。
親孝行の歌の歌人というイメージが強かったので、次の歌があることを知ったときは驚いた。
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
すごい迫力だ。
「われ」はなぜ沈黙しているのか。また、雨に濡れたたくさんの葡萄の房を見て何を思っているのか。
筆者が最初思ったのは、「われ」は罪びとなのではないか、だから「沈黙」しているのではないか、ということ。
ずっと自分の罪を隠し続けてきた。ところが、雨に濡れる黒い葡萄を見たとき、自分が隠し続けてきた罪がそこに露わになっているように感じる。百倍にもなって自分に突きつけられているように思う。そして恐れおののく――。
歌だけを読むとどのようにも解釈できそうだ。だが、茂吉はいつ、どのような状況でこの歌を作ったのか。そしてこの歌にどのような思いを込めたのか。それを調べてみた。
■語句
百房の――「非常にたくさんの」。
見よとぞ――「見よと言っているのだ」。「ぞ」は強意。「ぞ」を受ける結びの語句(ここでは「言ふ」)が省略されている。
■歌の意味
「見よ」と言っているのは誰か。あるいは何か。
鎌田五郎は「雨」としている。小倉真理子は「天」としている。
ただし、鎌田も「偉大なる至高の存在(大自然)が、ふりそそぐ『雨』を通して作者の脳裏に描かれているのであろうか」と言っているので、小倉とそう大差ない。
やはり、葡萄に雨が降り注いでいる情景全体を、「天」が見よと言っていると取るのが自然だ。
ただ、焦点は葡萄に当たっている。
歌の意味は次のようになるだろう。
垂れ下がったたくさんの黒い葡萄の房に、雨が降り注いでいる。沈黙している私に、天はこれらの葡萄の姿を見るがいい、と言う――。
■さまざまなコメント
他の人の解釈やコメントを調べてみる。これまでこの歌はどのように理解されてきたのか。
歌が作られたのは、1945年9月上旬で、8月15日の敗戦からまだ一か月も経っていない頃だ。このような時代状況を踏まえた解釈がさまざまになされている。
◆悲嘆・悲しみ
まず、この歌に敗戦の悲しみをみるもの。
ここには悲嘆をしずめようとする沈黙の立像がある。(佐藤佐太郎)
ただひたすらな悲しみが、悲歌として結晶した。(大岡信)
◆沈痛をしずめる
「悲しみ」ではなく、「沈痛」という語を使う評者もいる。
沈痛の面貌(上田三四二)
百房の葡萄の一粒一粒の黒色の球は、臨界状態にある作者の沈痛さを抱え込んで膨れあがっている。(紀野恵)
第二次大戦後の沈痛な心情を<百房の葡萄>に託した」(穂村弘)
さながら重い沈痛な心そのものであり、その心を沈めようとするかのようでもある。(武川忠一)
◆激励や慰め
この歌に「激励」や「慰藉」を読み取る評者もいる。
悲歎と沮喪(=意気消沈)に耐えて、時として瞑目する作者に、この象徴の黒葡萄は、それもブドウ園の棚の、葉交に垂れる無慮百房になんなんとする、鬱然たる葡萄の房の群は、「見よ」すなわち、目を見開けと、雨中に濡れて光り、作者の胸に囁きかける。それは示威、あるいは激励、そして慰藉ともなろう。(塚本邦雄)
う~む、格調高い文章! だが、具体的にどのような「示威」「激励」「慰藉」なのかは述べられていない。
それは穂村弘も同じ。
慰藉の透明感がたたえられている(穂村弘)
鎌田五郎は「激励」を具体的に語っている。
敗戦の衝撃に打ちのめされた作者の自己激励の言葉であろう。(……)「百房の黒き葡萄」は数限りなき、豊熟せる自然の壮観を意味し、これに「雨ふりそそぐ」さまは、その壮観に更に眼睛を点ずるものであろう。(鎌田五郎)
ここでは葡萄は「自然の壮観」と肯定的に捉えられている。「雨ふりそそぐ」も「その壮観に更に眼睛を点ずるもの」、つまりイメージに大事な仕上げを付け加えることで、全体を引き立たせているものと見ている(★1)。
雨に打たれながらも、数多くの葡萄が「豊熟」し、その生命力を発露させている。自分は生きる気力を失っているが、それではいけない。自分もまた生きねばならない。百房の葡萄が持つ圧倒的な生命力に励まされている、と解釈する。
◆戦争責任との関連
時代が下ってくると、茂吉の戦争責任との関連が取りざたされるようになる。
戦争協力への懸念?
茂吉には、もう一つ沈黙を余儀なくされる理由があった。それは戦前、戦中とおびただしい戦争賛歌を作っていたからである。この頃には、まだそのような戦争讃歌を糾弾する声はおこっていなかったが、心の奥には、こののち自分が文壇、歌壇でどのような場に立たされるのかに関して、かすかな懸念もあったはずである。そのような鬱屈した思いが、彼に沈黙を強いたのであるかもしれない。(永田和弘)
「葡萄」は茂吉の戦争讃歌の象徴?
あるいはこの百房の葡萄こそ、茂吉が戦時中に累々として詠み続け、歌人として今や負の遺産となった多量の戦争讃歌を象徴しているのかもしれない。(小倉真理子)
「葡萄」は戦死者の魂であり、「沈黙の」の歌には、戦意高揚に加担してきたことへの「傷心の思い」が現れているのかも、という解釈もある。
「葡萄」は戦争で亡くなった人々の魂の現れでしょうか。降りそそぐ雨にうたれ続ける「葡萄」、それが「黒き葡萄」であることで、死者たちの怒りや悲しみがいっそう立ち上がってきます。ずぶぬれの「葡萄」たちの無残な叫びを一身に引き受けて立つ覚悟を感じさせる歌です。(松本典子)
いろいろな解釈を読んで、この歌を詠んだときの茂吉がどのような思いでいたのかを、もっとはっきりと知りたくなってきた。
■「沈黙の」の歌を詠んだ頃の茂吉
1945年3月に東京大空襲があり、4月に茂吉は郷里である山形県の金瓶村に疎開する。妹婿である斎藤十右衛門の土蔵を借りて住む。
8月15日、終戦。「沈黙の」の歌が詠まれたのは9月上旬で、当時茂吉は63歳だった。
日記や手紙の記述、また手帳に記された歌から、終戦後の茂吉の心情を見ていこう。
◆8月15日:日記
1945年8月15日正午、天皇による大東亜戦争終結の放送、いわゆる「玉音放送」を聞く。前日にポツダム宣言受諾が決定し、ただちに詔書(天皇の発する公文書)が起草された。「玉音放送」はそれを天皇自身が読み上げたものだ。
茂吉は日記に次のように書いている(★2)。
八月十五日 水曜、晴れ、聖勅御放送 八月十四日を忘るるなかれ、悲痛の日
「八月十四日を忘るるなかれ」の「八月十四日」は8月15日の誤記ではない(★3)。それは「御聖断」が下された日、つまり日本が歴史上初めて他国に降伏した日だ。茂吉はその日をしっかり記憶しておこうと決意している。
日記は次のように続く。
正午、天皇陛下の聖勅御放送、はじめに一億玉砕の決心を心に据え羽織を着て拝聴し奉りたるに、大東亜戦争終結の御聖勅であった。噫、しかれども吾等臣民は七生奉公としてこの怨み、この辱しめを挽回せんことを誓いたてまつったのであった
◆8月15日:手帳の歌、「玉音放送」を聞いて
手帳には、天皇の放送を聞いた後に詠んだ歌が8首記されている。「十四日、正午、天皇陛下聖勅御放送、八首」とあるが、この「十四日」は「十五日」の誤記(★4)。
茂吉が何を思ったかがよくわかるので、詳しく見ていく。
天皇のみこゑのまへに六十四歳斎藤茂吉誓ひたてまつる
これが最初の歌だ。茂吉は誓いをすることを宣言する。「誓い」とは何か。「玉音放送」の最後の一節を受けたものだろう。
正に国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動して欲しい。
この天皇の言葉に従おうという「誓い」だ。
だが、茂吉の本心としてはもっと激しく、この日の日記にあったような「七生奉公としてこの怨み、この辱しめを挽回せんこと」だったろう。
くれなゐの血潮の涙はふ〈溢〉るともこの悲しみを遣らふ術(かた)なし
「遣らふ」は「追い払う」。
「血潮の涙」が溢れようとも、今の「悲しみ」は振り払うことはできない――。
たたかひの破れたりとふ事立を明かにせむはぢらふべしや
「とふ」は「という」。「事立」は、辞書に載っていないのでわかりにくいが、「立つ」には「起こる」の意味があるから「起こった事」という意味だろう。要するに「生じた事実」だ。
つまり、戦争に負けたのだという事実を自分に明らかにする、自分ではっきり認めることは、恥ずべきことなのだろうか、という意味だろう。
まず、敗北をはっきり認める。そこから出発しようではないか。そう歌っている。
忍辱は多力なりとふことわりを今こそいはめわが後昆に
「忍辱」は仏語で、侮辱や苦しみに耐え忍び、心を動かさないこと。「とふ」は「という」。「ことわり」は「道理」「条理」。「後昆」は普通は後の世の人の意だが、ここでは後に続く若い人々のことも含めているだろう。
皆で敗戦の屈辱に耐えよう、それこそが何よりも力となるのだ。そう、後に続く人々に言おう、という意味の歌。
敗戦を前にして自分たちが取るべき態度が「忍辱」という一語に集約される(★5)。
われつひに破れたりともとことはの時のながれをおもはざらめや
「とことは」は「不変、永遠」。「とこ」は接頭語で「常」と書き、「永久不変」の意。「とは」は「永遠」。
とうとう敗れたとはいえ、永遠の時の流れを思わないではいられようか。天皇がお作りになり、治めてこられたこの国の歴史を忘れ去ることなどできるはずがない。
もろもろのさやぎさもあらばあれ(今ゆのち)大土のごとわれは黙さむ
「さやぎ」は「さらさらと音を立てること」。「さもあらばあれ」は「そうならばそれでかまわない」。「今ゆのち」は「今からのち」。「ゆ」は「から」の意。「黙さむ」は、「もださむ」と読むのだろう。別の歌でそう振り仮名をつけている(★6)。「む」は意志。
これからいろいろな議論がなされるだろうが、そうしたい人はそうするがいい。だが、「われ」は今からは大地のごとく沈黙しよう――。
つまり、「忍辱」の具体的な表現形式が「沈黙」なのだ。
しかすがに山の底ひのほのほなす身ぬちのたぎちいかにかもせむ
「しかすがに」は「そうはいっても」、「底ひ」は「奥底」、「ほのほ」は「炎」、「身ぬち」は「身の内」。「ぬち」は「のうち(内)」の音変化。「たぎち」は「激しい水の流れ。激流」。「いかにかもせむ」は、反語で、「どうすることができようか、どうしようもない」。
「沈黙」するとしても、胸の奥底で荒れ狂っている炎の奔流をどうしたらいいのか。渦巻く怒り、悔しさ、屈辱はおさめようがない――。
「五内為ニ裂ク」と宣まふみことのりすめらみ民は何をかまうさむ
「五内為ニ裂ク」は「玉音放送」からの引用。「そのために五臓が引き裂かれる思いである」の意。「五内」は「ごない」あるいは「ごだい」と読み、「五臓」のこと。「為に」は「そのために」。
玉音放送では、「帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く」(戦場で没し、職責の為に亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである)とあった。
「みことのり(詔勅)」は天皇の言葉。「すめらみ民」は「天皇の臣民」(「すめら」は天皇の尊敬語)。「まうさむ」は「まうす(申す)」の未然形に助動詞「む」が付いたもの。
天皇陛下がそこまでおっしゃったのであるから、我々天皇の臣民はこれ以上何を言うことがあろうか――。
◆8月16、17日:手紙
手紙でも「忍辱」の語が使われている。
昨十五日御聖勅拝聴、涙をのみました。今後は忍辱に徹するのみでございます。
実に大きな戦であつたが、つひにこの終末になつた。国民は今後の忍辱を体験することになつた。小生ももう少し生きて、この経過を見たいがどうなる事やら知れたものでない
◆8月17日:手帳の歌「詔書拝誦」
8月15日の「玉音放送」で読まれた終戦の詔書は、放送後に配布された新聞に掲載された(★7)。8月17日、茂吉は新聞社から「大詔を拝誦して」(日記)5首の短歌を詠むように依頼される。その日のうちに作歌した。
歌は「詔書拝誦」(「拝誦」は読むことをへり下っていう語)と題して、8月20日の朝日新聞と山形新聞に同時に掲載された(★8)。題の後に、「臣 斎藤茂吉」と書かれている。
以下、新聞掲載のものではなく、手帳に書かれたものを順に見ていく。
聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる
「かしこくもあるか」は「畏れ多くもあるか」。「かしこし」は「畏れ多い」「もったいない」の意。
万世ノタメニ太平ヲ開カムと宣らせたまふ現つ神わが大君(★9)
「万世ノタメニ太平ヲ開カム」は、詔書の中の言葉。
大君のみこゑのまへに臣の道ひたぶるにして誓ひたてまつる
ここにも「誓ひ」が出てくる。「臣の道」とは、詔書の中の言葉、「正に国を挙げて一家として団結し(……)神国日本の不滅を固く信じ(……)総力を将来の建設のために傾け(……)」を受けたものだろう。それに邁進するということ。
まかがよふすめら御国の肇国をあらたにせむと誓ひたてまつる
「まかがよふ」は「澄んできらきらと光っている」。「ま(真)」は接頭語。通常は名詞・形容詞などに付いて「真実・純粋・完全」などの意を添えるが、ここでは珍しく動詞に付いている。「かがよふ(燿ふ)」は「きらきらと揺れて光る」。
「すめら御国」は「皇御国」と書き、天皇の治める国のこと。
「肇国」は「神武天皇あるいは崇神天皇が最初に建てた国」。「初国」とも書く。「肇国をあらたにせむ」は、もう一度建国当初に戻って、国を作り直していこう、の意。
たへしのびこらへしのびて滅びざる命遂げむときほひたてまつる
詔書の「朕は(……)堪え難きを堪え 忍び難きを忍びもって万世の為に太平を開かんと欲す」を受けている。
「きほひ」は「きほふ(競ふ)」からで、「互いに張り合って勇み立つ」の意。前の歌と同じく、天皇のために命の限りをつくして新しい国を作るのだ、と誓っている。
8月15日の玉音放送を聞いてすぐ詠んだ歌は、天皇の言葉に従うという誓い、忍辱と沈黙への決意、激しい悲しみと身内にたぎる怒り、天皇の心情への慮りなど、自分の気持ちが前面に出ているが、「詔書拝誦」の歌は新聞用なので、未来に目を向け、人々を鼓舞する歌となっている。
◆8月17日以降
終戦の日に「大土のごとわれは黙さむ」と歌って以降、日記や手紙には「沈黙」「静居」「静思」などの語が多く見られるようになる。
河原近くの畑のへりの萱のかげに来て沈黙、静居した。(……)午後も河原の桜桃のかげに静居した
ついでに観音堂により、静思
B29一つ金瓶の村に低空で威張り飛びました。実にひどいことをする奴等にてありますが敗れたのですから黙っていねばなりません、実に敗北でありました
「敗者は黙っているべき」――これが当時の倫理だった。茂吉はそれに従っている。
後の9月17日の手帳に記された次の歌も同じ考えだ。
論調はいたく偏り濁れどもいたし方なし敗国われは
「論調」とは新聞の論調のこと。
仕方がないと我慢しつつも、手紙で怒りを見せることもあった。
9月1日:高橋愛次宛の手紙
敵軍御地(=神奈川県)へも進駐と存じ、しゃくにさはり居り候
◆9月2日:降伏調印式
9月2日、東京湾上の米戦艦ミズーリ号において降伏調印式が行われた。日本では8月15日が終戦の日となっているが、諸外国では9月2日が第二次世界大戦終結の日とされている。(知らなかった!)
9月2日は、外国と戦って敗れたことのない日本にとっては「信じがたい屈辱の日」(★10)だった。茂吉は日記に、「降伏調印(忘るること勿れ)午前九時」と記した。
手帳には、「この調印の性質は単なる休戦調印或は和平調印とは異り、わが方の完全なる屈服を意味するものである」と書いている。8月15日の「たたかひの破れたりとふ事立を明かにせむ」の歌と同じく、降伏という事実を胸にしっかりと刻み込もうとしている。
横浜に住む佐伯藤之助からの9月2日付の手紙には、この日の東京湾上のミズーリのスケッチが同封されていたようだ。茂吉は9月8日付の返信で次のように述べている。
特にスケッチは無量の感謝を以ていただきました。実に史的記念でございます。しゃくにさわるということはいえませんが、胸中熱炎でしょう。しかし決してもういいません
「胸中熱炎」は茂吉も同じだ。ただ、そう書きつつも「決してもういいません」と沈黙の誓いを思い出している。
◆9月4日:手帳の歌
9月4日、『週刊朝日』用の歌5首を手帳に書いている。最初の2首は次のようなもの。
ゆふづつの光るあひだを丘にたちゆくへも知らぬわが悲しみぞ
たたかひに吾はやぶれていたいたしくたぎつ心をいづべに遣らむ
1首目の「ゆふづつ」は「夕星」で、夕方に西の空に見える金星。宵の明星とも呼ぶ。2首目の「たぎつ」は「水が湧き立ち、激しく流れる」の意。
茂吉の中に、悲しみ、くやしさ、怒りが充満していることがわかる。
次は同日の手紙。
きょうは朝から雨がしとしとと降って、遣ろうかたない悲哀が身に迫ってまいります。
◆9月上旬:「沈黙の」の歌
茂吉が手帳に、今回取り上げている次の歌を記入したのはこの頃のことだ。(日付けははっきりしない。)
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
ここまで見てくると、この歌を詠んだときの茂吉の心情が見えてくる。
茂吉は敗戦の屈辱を胸底に抑え込み、自分に「沈黙」を課した。しかし、9月2日の降伏調印式は、茂吉に改めて敗戦の屈辱を思い知らせることになる。
忍辱あるのみ、沈黙し続けるのだ、と思っていても、時として心が弱ることがある。悲しみに沈むことがある。
そのときに、雨に打たれる葡萄に目がとまる。葡萄の黒は沈黙の色だ。沈黙が百倍になって茂吉の視界に飛び込んでくる。
茂吉は大きな衝撃を受ける。「われに見よとぞ」が茂吉の受けた衝撃を示している。
黙々と雨に打たれ続ける葡萄は、おまえの沈黙はその程度のものなのか? と茂吉を叱責する。だが同時に、おまえも俺たちのように黙し続けるんだ、と励ましてくれる。そして、沈黙し続けているのはおまえだけではないぞ、と慰めてくれる。
もちろん葡萄はただ自分の姿を示しているだけだろう。だが茂吉はそこに、自分の存在のあり方の範を読み取ったのだ。
つまり、この歌は茂吉にとって、沈黙への決意を新たにする歌だ。
◆その後の茂吉
その後も茂吉の「沈黙」は続く。9月分の手紙や日記を見てみる。
天気がよければ殆ど山中の木かげに沈黙です
雨しきりに降る、沈黙してそれを見て居る。
午後、草鞋(わらじ)を穿いて田圃のあいだに行き沈黙。
午後、酢川べりの林中に沈黙(……)林中にあっても沈鬱、帰り来て新聞読み沈鬱
また、苦しみや悲しみをうたった歌には次のようなものがある。これも9月分。
たたかひのやぶれしのちのくるしさをわれにな問ひそ起きをるわれに
「な……そ」は、「~してくれるな」の意。敗戦後の苦しさなどどうか訊かないでくれ。夜、いつまでも寝られずにいる私に――。
悲しみは渦をまきつつあらがねの土の中にも徹らむとする
「あらがね」は鉄のこと。「徹らむ」の「徹る」は「とほる(通る)」で、ここでは「貫く」の意。悲しみは渦を巻いて鉄の土さえも貫こうとする――。
悲しみの強さの表し方に圧倒される。
悲しさに声をあげむとおもへどももろもろのこゑそれをはばまむ
悲しみを抑えて沈黙する。
たたかひにやぶれし国の山川をけふふりさくと人にしらゆな
「けふ」は、「今日になってもまだ」「今日も」の意か。「ふりさく」は「ふり仰ぐ」。
戦いに敗れた国の自然を眺めながら、いまだに悲しみに沈んでいる。「人にしらゆな(人に知られるな)」は、悲しんでいる自分の姿を隠しておこうとしている。
日記では時折、怒りを噴出させてもいる。
この時勢に憤慨せぬ奴等はどういう気持か
9月27日に天皇がマッカーサーを訪問したことへの怒りだ。
新聞に天皇とマッカーサーが並んだ写真が載ったときには、
うぬ! マッカーサーの野郎
敗戦後の茂吉は、苦しみに耐え、悲しみに沈みつつ、時折怒りが溢れることがあったとしても、基本的に「沈黙」を自身の取るべき態度として選び取って生きていた。
■おわりに
以上、8月15日の終戦から「沈黙の」の歌が作られる9月上旬まで、さらに9月末までの茂吉の心の動きを見てきた。
はっきりしているのは、戦意高揚の歌を作ってきたことへの反省や、そのことによって批判されることへの懸念は、この時期の茂吉の中にはまったくないということである(★11)。
茂吉の心を満たしていたのは、敗戦の屈辱や悲しみ、沈痛、諦め、天皇の心情への慮り、進駐軍への怒り、国の再生への願いなどだ。終戦からまだ一か月も経っていないのだから当然といえば当然だ。
歌は、雑誌『短歌研究』昭和20年(1945年)10月号に発表された後、歌集『小園』(1949)に収められた。
その「後記」で茂吉は、8月15日以降の自分について、次のように書いている。
私は別に大切な為事(=仕事)もないのでよく出歩いた。山に行っては沈黙し、川のほとりに行っては沈黙し、隣村の観音堂の境内に行って鯉の泳ぐのを見ていたりした。また上ノ山(=上山)まで歩いてゆき、そこの裏山に入って太陽の沈むころまで居り居りした。
「山に行ったり、川のほとりに行ったり」ではなく、「山に行っては沈黙し、川のほとりに行っては沈黙し」と、ことさらに「沈黙」を強調している。
「沈黙」は敗戦後の茂吉が選び取った、自らの存在の形だった。
■注
★1:壁に描いた竜に瞳を入れたら、たちまち雲に乗って昇天したという故事にちなむ「画竜点睛」という成語がある。「眼睛を点ずる」はそこから生まれた表現。「眼睛」(「睛」は「晴」ではない)は瞳のことで、「眼睛を点ずる」は竜に瞳を描き加えること。つまり、最後の大事な仕上げを行うこと、ほんの少し手を加えることで全体を引き立てることを意味する。
★2:茂吉の引用については『斎藤茂吉全集』新版の第28巻(手帳)、第32巻(日記)、第35巻(書簡)を使用した。手帳に書かれた茂吉の歌については、漢字は新字体に改めたが、平仮名は旧仮名のままである。振り仮名、括弧なども原文に従っている。日記や手紙は新字体、新仮名遣いに改め、適宜振り仮名をつけた。日記は片仮名で書かれているが、平仮名に改めた。片仮名の中に最初からあった平仮名は片仮名にした。
★3:「十四日」は長らく誤記とされてきたが、三枝昂之は「誤記ではなく、聖断が下された八月十四日を胸に刻み込むための記述だった」(340頁)として、「誤記説は改めたい」と述べている。説得力がある。
★4:三枝昂之341頁。
★5:「忍辱は多力なり」は幸田露伴の随筆の言葉(清田文武23頁参照)。1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃の直後の新年に、茂吉は「忍辱の多力なること少年のときに吾知りていまぞ念はむ」と詠んだ。秋葉四郎113頁、加藤淑子247頁参照。
★6:手帳の「八月十二日」(1945年)の日付けの後に、「状勢は深刻となり、くにあげて声のむときにわれも黙さむ」の歌がある。
★7:三枝昂之によれば、「政府の命令で詔書の内容を掲載した新聞は午後一時以降の配布と決められていたから、多くの新聞は八月十五日の紙面に詔書を掲載し、午後配布した。なかには山形新聞のように、朝にはいつもと同じように八月十五日の新聞を、午後に詔書を含めた敗戦記事掲載の号外を配布するケースもあった。」(306頁)
★8:三枝昂之306頁。この間の新聞発行の事情については、三枝孝之339頁参照。
★9:最初は「現つ神」としていた。新聞には「現神」で載った。しかし、その後占領軍による検閲が厳しくなり、「アララギ」昭和20(1945)年11月号に転載されたときには、「現神」の部分は伏字となった。手帳には、「この『現つ神』の文字を削除せしめらる」と追記されており、「現つ神」は「天皇陛下」と修正されている。『斎藤茂吉全集』新版、第4巻の「短歌拾遺」では「天皇陛下」の形で載っている(287頁)。ここでは元の形の「現つ神」とした。三枝昂之369-370頁、加藤淑子247頁参照。
★10:加藤淑子251頁。
★11:茂吉が最初に非難されるのは、昭和20年(1945年)11月創刊の雑誌『新生』誌上においてである。福本和夫は「新日本への一建言」において、東條英機批判に続いて、「然るに此の東條を大宰相として讃えた歌人斎藤茂吉氏がこんど終戦の大詔をかしこみまつるの歌数首を新聞に寄せているのは、精神病者か、然らざれば、責任を解せざる東條と同型の人物でなければ何人も容易に為し能わざるところであろう」(三枝昂之385頁より引用)と糾弾した。「終戦の大詔をかしこみまつるの歌数首」とは8月20日新聞掲載の「詔書拝誦」の5首を指している。
■参考文献
◆テクスト
『斎藤茂吉全集』新版、全36巻、岩波書店、1973-1976
◆文献
秋葉四郎『茂吉 幻の歌集「萬軍」』岩波書店、2012
上田三四二「『小園』の茂吉」、日本文学研究資料刊行会『斎藤茂吉』有精堂、1980、237-244頁(初出は『短歌研究』1968年4月号)
大岡信『第三 折々のうた』岩波新書、1983、99頁(朝日新聞には1982年掲載)
小倉真理子『斎藤茂吉』コレクション日本歌人選018、笠間書院、2011
加藤淑子『斎藤茂吉の十五年戦争』みすず書房、1990
鎌田五郎『斎藤茂吉秀歌評釈』風間書房、1995
紀野恵 →『岩波現代短歌辞典』岩波書店、1999
清田文武「斎藤茂吉『小園』の「こらへるといふは消極のことならず――」の一首をめぐって」、新潟大学大学院現代社会文化研究科『現代社会文化研究』別冊、2005、21-28頁
三枝昂之『昭和短歌の精神史』本阿弥書店、2005
佐藤佐太郎「『小園』頌」、日本文学研究資料刊行会『斎藤茂吉』有精堂、1980(初出は『斎藤茂吉の人間と芸術』羽田書店、1951)
武川忠一 →『新編 和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄・武川忠一編、笠間書院、1999
塚本邦雄編『鑑賞日本現代文学⑨ 斎藤茂吉』角川書店、1981
永田和宏『近代秀歌』岩波新書、2013
藤岡武雄『年譜 斎藤茂吉伝』新訂版、沖積舎, 1982
穂村弘 →『岩波現代短歌辞典』岡井隆監修、岩波書店、1999
松本典子 →『鑑賞 日本の名歌』『短歌』編集部編、KADOKAWA、2013
谷沢永一『斎藤茂吉』新潮日本文学アルバム14、新潮社、1985
◆辞典・事典その他
『岩波現代短歌辞典』岡井隆監修、岩波書店、1999
『新編 和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄・武川忠一編、笠間書院、1999
◆その他
「斎藤茂吉記念館」のサイト
https://www.mokichi.or.jp/