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カフカの性描写(1)―『失踪者』より

カフカの作品にも性行為は描かれている。性行為が直接的に描かれているところもあれば、性行為を描いていないのにそれが性行為であるような印象を読者に与えるところもある。

カフカがストレートに性行為を描いているのは長編においてだ。その場合、主人公の性行為と脇役の性行為の両方がある。

長編の主人公はカフカの分身だ。主人公の性行為がどのように描かれているのかを見ていこう。

『失踪者』の性描写

最初の長編『失踪者』の主人公、17歳の少年カール・ロスマンは、女中に誘惑され、その女中に子供ができてしまったために(★注)、両親によってアメリカに追い払われる。アメリカに着いた船の中でカールが当時のことを思い出しているところがある。

しかしあるとき、彼女(=女中)は「カール!」と呼びかけ、思いがけない呼びかけにまだ驚いている彼を、顔をゆがめてため息をつきながら、自分の小部屋に引き入れると、鍵を掛けた。首をしめんばかりに彼女は腕を巻きつけた。服を脱がせてと頼みながら、実際には彼の服を脱がせ、彼を自分のベッドに横たえた。もうこれからは彼を誰にも渡さず、世界が終わるまで彼をなでさすり、世話したいと望んでいるかのようだった。「カール、ああ、私のカール」と彼女は言った。彼女は彼を見て、それが自分のものであることを確認しているかのようだった。彼のほうはといえば、まったく何も見えず、彼のために特別に重ねてくれたと思われる掛け布団の下で苦しんでいた。それから彼女も彼のそばに横になり、彼から何か秘密を聞き出そうとしたが、彼には何も言うことがなかった。彼女は冗談なのか本気なのかわからないが怒り、彼を揺さぶり、彼の心臓の音を聞こうとし、彼にも音を聞いてもらおうと胸を突き出したが、彼が思ったようにしてくれなかったので、むき出しの腹を彼の体に押しつけ、彼の脚の間を手でさぐったので、カールは嫌悪感のあまり枕の下から伸び上がって頭と首を出した。それから彼女は自分の腹を二三度彼にぶつけた。彼には彼女が彼自身の一部であるかのように思われ、そのためだろうか、彼は恐ろしい寄る辺のなさに捉えられた。何度も何度もまた来てねと懇願された後でやっと、彼は泣きながら自分のベッドに戻った。(『訴訟』第1章「火夫」、ヨジロー訳)

注釈

ここでは性行為が、性を知らない無垢な少年の目から異化されて描写されている。それが滑稽感を呼び起こす。

「顔をゆがめてため息をつきながら」――色っぽい表情でカールを誘惑する女中がカールにはこのように見える。女中のあえぐような表情が「顔をゆがめて」と冷静に描写される。

「首をしめんばかりに」――カールはぎゅっと抱きしめられたのを、首を絞められているかのように感じる。性愛のためだと理解できないので、何をされているのかわからないでいるのである。

「服を脱がせてと頼みながら、実際には彼の服を脱がせ」――「服を脱がせて」と言えば、それだけで通常は理解されることが、カールには何のことかさっぱりわからない。カールが何もしないで茫然としているので、女中の方が彼の服を脱がせてしまう。

「もうこれからは彼を誰にも渡さず、世界が終わるまで彼をなでさすり、世話したいと望んでいるかのよう」――女中の激しい性的欲望が、性体験のないカールにはとてつもなく不可解なのでこのような表現となっている。「世界が終わるまで……世話したいと望んでいるかのよう」という喩えがおかしい。

女中の方は、このような場面での通常の行動をしている。「カール、ああ、私のカール」と言い、彼を「自分のものである」かのように見つめる。ところが、カールは、掛け布団に埋もれて苦しんでいる。このすれ違いも想像すると滑稽。

「彼から何か秘密を聞き出そうとしたが」――女中はおそらく、あんたも性行為に興味があるんでしょ、と共犯者的共感をカールとの間に醸成しようとしたのだろう。ところが、「彼には何も言うことがなかった」と述べられている。カールは性的にまったく無垢だったのである。

「彼女は冗談なのか本気なのかわからないが怒り、彼を揺さぶり」――いよいよ女中が本格的に行為に及んでいるのであるが、それが「怒」っているように見え、また「揺さぶ」っているように見えるのも、カールが性に無知だからであろう。

「彼の心臓の音を聞こうとし、彼にも音を聞いてもらおうと胸を突き出した」――これも、女中が彼の胸に顔を寄せた後で、彼女が乳房を彼に向けたことを示しているであろう。しかし、彼はそれを「(心臓の)音を聞いてもらうと」したと受け取っている。

「それから彼女は自分の腹を二三度彼にぶつけた」――これが実質の性行為である。

「彼は恐ろしい寄る辺のなさに捉えられた」――射精の瞬間を表しているだろう。ここには性的快感については微塵も触れられていない。快楽の瞬間は、「恐ろしい寄る辺のなさ」と表現されるだけだ。

カールは「泣きながら」、「やっと」自分のベッドに戻る。カールにとって初めての性体験は、まったく楽しい経験ではなく、ただ悲しい体験でしかなかったことがわかる。

まとめ

全体として、女中のほうは性的欲望に駆り立てられて行動しているのに、カールの方はあくまで日常的思考のままで一連の出来事を見ている。このずれが異化作用をもたらし、読者を笑わせる。

だが、カフカの余裕は本当の余裕なのだろうか。カフカは滑稽に描きながらも、本当はカールと悲しみを共有しているのではないだろうか。

いずれにせよ、カフカの最初の性描写が示しているのは、性行為への嫌悪感であり、悲しみである。

伝記的には、ここにはカフカの初体験――カフカはそれをミレナへの手紙で詳しく述べている――の苦さが反映しているだろう。

★注:カフカの親類に、14歳で料理女に誘惑され、子供ができた従兄がいる。アンソニー・ノーシー『カフカ家の人々』石丸昭二訳、法政大学出版局、1992、78頁参照。カフカはこの件を作品に利用していると思われる。


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