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三好達治の詩「大阿蘇」―もしも百年がこの一瞬の間にたつたとしても

三好達治の詩「大阿蘇」は、1937(昭和12)年刊行の雑誌『雑記帳』第2巻第6号に掲載された。達治が36歳のときだ。前年の1936(昭和11)年に阿蘇山を再訪しているようだ。1939(昭和14)年に、詩集『春の岬』に収められた。

三好達治の「口語自由詩の代表作」(『近代詩鑑賞辞典』)といわれる。教科書にも掲載されてきたので知っている人も多いと思う。

■三好達治「大阿蘇」

雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬こうまをまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々せうせうと降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中もたてがみも ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 蕭々と降つてゐる
山は煙をあげてゐる
中嶽なかだけの頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濛々もうもうとあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里浜くさせんりはまのとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな靜かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは靜かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は蕭々と降つてゐる

■語句

題名「大阿蘇」――著者自身が「オオアソ」と読むべきとしている(全集6、288頁)。「大阿蘇」という地名は存在しない。

蕭々と――もの寂しいようすで。

ぬれそぼって――「濡れそぼつ」は「濡れてびしょびしょになる」。

うなじ――首の後ろの部分。

中嶽――阿蘇山の中心をなす活火山。中岳のほかに、高岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳があり、阿蘇五岳と呼ばれる。

艸千里浜――草千里ヶ浜のこと。単に草千里とも呼ばれる。広々とした草原が続いている。ここからは中岳を一望することができる。

■解釈

詩全体は大きく3つの部分に分けられる。

最初の9行。雨に濡れながら草を食べている馬の姿が描写される。題名が「大阿蘇」となっているので、阿蘇の風景であることが読者に想像できる。

次の4行が描写するのは、噴煙を上げる火山、阿蘇中岳のようすである。

そして最後の9行。また、雨に濡れながら草を食べている馬たちの姿が描かれる。草千里浜という具体的な場所も知らされる。最初の9行の終わりとほとんど同じ「雨は蕭々と降つてゐる」が繰り返される。

第1部は、それだけ見れば、叙景詩だ。蕭々と降り続ける雨、濡れそぼっている馬の群れ、草を食べている馬たち――詩人は見たものをそのまま描写している。

叙景詩と言っても、ただ景色を何の感情もまじえずに客観的に描写するわけではない。描写のために何を選択するか、どのように表現するかによって、詩人の心情が見えてくる。

この最初の9行からはどのような心情が読み取れるのか。「ぐつしよりと濡れそぼって」「雨は降つてゐる 蕭々と降ってゐる」――これらの表現からわかるのは、雨に濡れた馬たちのわびしい姿だ。詩人はそのように生きている馬たちを哀れに思っているだろう。「あるものはまた草も食べずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる」――馬は、もちろん自分の置かれた状況を理解してもいないのだ。

詩人の目は馬たちを離れて、噴煙を上げる遠くの火山のほうに向かう。噴煙は「重つ苦しい」ものであり、「空いちめんの雨雲」へと切れ目なしに続いている。「うすら黄色い」噴煙が上空で黒ずんだ雨雲へと溶け込んでいる。天と地がつながる壮大な光景だ。ただ、天地は暗く、おどろおどろしい景色となっている。

詩人の目はまた下に降りてくる。そこにいるのは草を食べている馬たちだ。噴煙を上げる火山を背景に、「艸千里浜」と呼ばれる広い草原で草を食べている。

ここでの馬たちの描写は、最初のものとは明らかに違っている。馬たちが食べているのは「雨に洗われた青草」であり、馬たちはそれを「いつしんに」食べている。馬たちは「静かに」立っている。「静かに」集まっている。肯定的な言葉が使われる。馬に対する詩人の見方が変わったのは明らかだ。

そして、この詩で唯一の、詩人の直接的な感想が吐露される。

もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう

この1行がなくても、阿蘇の草千里で、雨の中いっしんに草を食べる馬の姿を描いた詩としてそれなりに評価される詩となっただろう。しかし、この1行があるために、この詩が傑作となった。

百年経ったとしても馬たちは同じように生きているだろう。重苦しい煙が噴き出し、空一面が黒い雨雲でおおわれていようと、馬たちはあくせくすることなく、「静かに」立っているだろう。「いつしんに」草を食べているだろう。変わることもなく、変わろうとすることもなく、ただただ、生きるために必要なことを日々しているだろう。馬たちのそのような確固とした存在感――それに詩人は心を打たれたのだ。

■さまざまな解釈

この詩でもっとも重要な詩行が「もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう」であることについては衆目の一致するところだ。しかし、諸家はどう解釈しているだろうか。

この一行に感動があると述べるだけで、詳しく説明していない評者も多い。ここでは、何らかの言及がなされているものを拾っておく。

◆「もしも百年が……」について

伊藤信吉:1954

(……)百年というとおい時間の向うから、馬のいる一枚の映像をまねきよせ、それを眼前の事象にかぶせて、その即物的な表現につよい実感をあたえたのである。

伊藤は、「もしも百年が」の1行よりも、詩のそれ以外の部分の即物的表現に感銘を受けている。そこからこの1行を、詩の基調である即物性を強めるためのものとみなす。

百年後を現在に「まねきよせ」ているという表現がちょっと気にかかる。僕は普通に、百年後の世界を想像していると思うのだが。

村野四郎:1966

眼前に茫漠とひろがっている大自然からうける悠久感の中では、百年ぐらいの時間はものの数ではなく、おそらく百年たった後でも、馬たちは現在の様子そのままに、雨にぬれながら黙々と草をたべているにちがいない、という意味をこめて、時間的観念を忘失させるような、この大自然の景観からうけた茫漠感と静寂感とを、ここに盛り上げているのである。

関良一:1968

ここでは永遠の時間の静止のような情景をいっているのである。

金井直:不明

雨の降る草千里浜、濡れながら草を食べる馬、その光景がそのまま無限の世界であるように感じる。この感覚の中には寂滅感が含まれている。日本人に自然観がよくあらわれているし、自然観照は三好の特質である。(西郷竹彦『名詩の美学』より引用)

「寂滅感」というのは、諸行無常の感覚のことか。

西原大輔:2015

永久の時間と大自然の中で、詩人は、自らが小さな存在にすぎないという事実をかみしめている。

学習指導書
三省堂の国語教科書(中学2年生用)の学習指導書には次のように書かれている。

大きな自然の営みの中では、生物の営みはささやかである。百年という年月は短い。

より新しい学習指導書では記述が長くなっている。

大きな自然の営みの中では、生物の営みはささやかである。百年という年月は短い。(……)自分たちの世界が、毎日些細なことで右往左往してしまうのに対し、この馬たちのなんと悠々たる存在であることか。大自然に平然と身を委ね、百年を一瞬にさえ感じさせてしまうくらいの存在感にただただ詠嘆しているのである。

以前からある部分と新たに付加された部分の間に齟齬がないか?

◆テーマについて

村野四郎:1966

大阿蘇の姿などは、わずかに山頂と噴煙を見せて構図しているに過ぎないが、事実は、そこに蕭々と濡れている生物の現在を目撃すると同時に、彼はその意識の背後に無窮のような大きい自然の姿を感じているのである。

関良一:1968

大阿蘇の大自然を目にした広大さ、寂しさを愛する気持をうたったもの。

飛高隆夫:1969

眼前に茫漠とひろがている大自然の悠久感
時間的観念も消え失せてしまいそうな大自然の茫漠感と静寂感

村野四郎を踏襲しているか。

西郷竹彦:1993?

これまでの評者が、茫漠感、静寂感、悠久感、時間的観念の亡失、日本人の自然感、寂滅感などをキーワードにしてこの詩を捉えてきたのに対して、西郷は詩の構造に注意を促す。

西郷によれば、馬のイメージが前半と後半で変化している。前半では、「濡れてたつてゐる馬」「仔馬をまじへて群れてゐる馬」「草をたべてゐる馬」「草もたべずにうなじを垂れてゐる馬」と、さまざまな馬の姿が個別に描写されるが、後半では、「彼らは草をたべてゐる」「彼らはいつしんにたべてゐる」「彼らはそこにみんな静かにたつてゐる」「(彼らは)いつまでもひとつところに静かに集つてゐる」と、「〈馬〉のイメージが一点にひきしぼられてくる」。

前半は遠心的に拡散し、後半は求心的に収斂するイメージの構造をもって対比されている。

気づかなかった! 西郷は、テーマについて次のように述べる。

〈大阿蘇〉の〈大〉は、天地の広がりの茫漠たる大きさのみを意味しているのではない。また悠久の時間の〈大〉のみを意味しているのでもない。かくも「雑多」にして「個別」なるもの(=馬たち)が、多様、多彩にして、しかもしっとりとした〈雨〉の情緒によって一つに包みこまれ秩序づけられた世界のまさに意味的な〈大〉としてとらえたい。

この〈大阿蘇〉の世界に立って、この世界と一つとなり、そこに呼吸し、そこに心を遊ばせている人間の心の真実がうたいあげられている(……)

西原大輔:2015

阿蘇の雄大な風景を背景として、悠久の時の流れをうたった口語自由詩。草千里浜に「静かに集」う馬の群れを、無音の一枚の絵画として捉えた自然観照の抒情詩である。

学習指導書(三省堂)

より新しい方の指導書がまとまっているのでそれを引く。以前のものと内容的には同じ。

「大阿蘇」をとおして作者は、自然の雄大さや悠久と、人間の存在の小ささや有限性とを対比している。大阿蘇の風景の中に身を浸したときに感じた、生物の営みのささやかさとともに自然の営みのダイナミズムと永続性をうたっているのである。

◆題名が「大阿蘇」であることについて

伊藤信吉:1954

作者の意図は山の風景や、その眺望を描くところにはなかった。/阿蘇火山にのぼって作者の眼をとらえたものは、雨のなかに立って草をたべる馬の群れであった。

「大阿蘇」はこうして散文的な美を構成し、眼前の事象をはっきりと描いたが、この詩ぜんたいからうける感じは、どことなく大らかである。(……)「草千里浜のとある丘」に立っていながら、しかも「大阿蘇」という題名そのままに、雄大な山容やひろい眺望が感じられるようだ。

なぜ「大阿蘇」という題名なのかを直接語ってはいないが、詩の背景となっている大らかさ、雄大さ、広い眺望などを表すためと考えているようだ。

安西均:1969

この詩では「大阿蘇」と題しながら、火山の風景としては中岳の噴煙が出てくるだけだ。壮大な景観は〈背景〉に押しやられ、ただ雨の中に濡れそぼつ馬の群れだけに焦点をしぼっている。それでいて、阿蘇の大自然を感じさせるから、ふしぎである。

飛高隆夫:1969

阿蘇山そのものは詩の中ほどにわずかに姿を見せるだけで、詩の表面に歌われているのは、蕭々と降り続ける雨と、その雨の中にたたずみ、黙々と草を食べている馬の姿である。それにもかかわらず、大阿蘇の存在はこの詩を読みつづける意識の中に忍びこんで絶えずその存在を感じさせる。

伊藤信吉や安西均を参照しているのだろうが、うまくまとめているなあ、と感心する。

西郷竹彦:1993?

→「テーマについて」を参照のこと。

■技法

技法についての指摘で、なるほどと思ったものを挙げる。

「ゐる」の反復について

全文が「ゐる」という描写ふうなことばで綴られている。それが全篇に落ちつきをあたえたようだ。(伊藤信吉『詩のふるさと』。引用は西郷竹彦より)

口語自由詩における詩的美感は、一つには平面の美というべきものを形成するところにかかっているが、この詩は「ゐる」の連鎖による語法の単純で的確な組成と、旅の情感の落ちつきとによって、平面の美というべきものを巧みに形成した。(伊藤信吉『詩のふるさと』。引用は阪本越郎より)

この反復については、それがこの詩の茫漠感と深いつながりがあることをつけ加えておく。(飛高隆夫)

現在形〈ゐる〉の反復は、同時に過去・現在・未来にわたる悠遠な時間の流れをも感じさせるものとなる。〈――ゐる〉という現在形は「いまゐる」という用法だけでなくくり返される事象を記述するときの用法でもある。(西郷竹彦)

「大阿蘇」の最大の特徴は、「てゐる」が十九回も使われていることだろう。同一語尾の単調な繰り返しが、広漠たる光景を表現する上で効果を発揮している。(西原大輔)

「ゐる」の反復は「落ちつき」を与える(伊藤)、「茫漠感」(飛高)や「広漠」さ(西原)や「過去・現在・未来にわたる悠遠な時間の流れ」(西郷)を感じさせる、とされる。

詩行による雨の視覚化

詩の各行の長短の交互反復の「模様」を見ていただきたい。(中略)ここには、過去・現在・未来と永遠に降りつづけるであろうとさえ思われる〈雨〉のイメージが視覚化されている。また降る〈雨〉の姿そのものが同時に視覚化されている。(西郷竹彦)

この詩の長短様々な全二十二行は、まるで雨脚を視覚化した図案のように見える。(西原大輔)

「ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは靜かに集つてゐる」のようなやたら長い詩行もあれば、「たべてゐる」のようなぽつんとした詩行もある。また「雨は降つてゐる 蕭々と降つてゐる」のように、すーっ、すーっと短い文が続く詩行もある。やはり意図的に雨を視覚化しているのだろう。(縦書きで詩を読まないとぴんとこないが)

山と草原の図案化

⑩~⑬行(=詩の中央の4行))が詩の形の中央にまさに〈山〉のように位置づけられ、その両側にひろびろと艸千里浜が広がっているさまを眼に見せてくれる。(西郷竹彦)

これはどうだろう? 草千里の写真を見ると、山々の手前に草原が広がっているようだが。

漢語と俗語の対照

声喩(=オノマトペ)が〈蕭々〉〈濛々〉とあり、この古めかしく格調ある漢語のイメージは〈ぐつしより〉〈きよとん〉という俗語のそれと異質な対照をつくりだしている。(西郷竹彦)

なるほど!

■おわりに

諸家の解釈を見ると、伊藤信吉や村野四郎の捉え方が大きな影響を与えていることがわかる。また、西郷竹彦はあいまいな捉え方に満足せず、細かな分析を加えて独自の解釈を示している。

筆者の解釈は馬たちに焦点を絞りすぎたかもしれない。「大阿蘇の存在はこの詩を読みつづける意識の中に忍びこんで絶えずその存在を感じさせる」(飛高隆夫)という指摘に耳を傾けたい。

■参考文献

安西均「三好達治」、伊藤信吉『現代詩鑑賞講座 第10巻 現代の抒情』角川書店、1969

伊藤信吉『現代詩の鑑賞(下)』新潮文庫、初版1954

小川和佑『三好達治研究』教育出版センター、1976

西郷竹彦『名詩の美学』黎明書房、2011(初版は1993か?)

阪本越郎「大阿蘇」の注釈、伊藤信吉、伊藤整、井上靖、山本健吉編『日本の詩歌22 三好達治』中央公論社、1967

関良一『近代詩の教え方』右文書院、1968

西原大輔『日本名詩選2』笠間書院、2015

飛高隆夫「三好達治」の項目、吉田精一・分銅惇作編『近代詩鑑賞辞典』東京堂出版、1969

村上菊一郎編『近代文学鑑賞講座 第二十巻 三好達治・草野心平』角川書店、1959

村野四郎『鑑賞現代詩Ⅲ 昭和』筑摩書房、1966

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