ヴェルレーヌ「空は屋根のかなたに」補足―シュロの葉?
ヴェルレーヌの「空は屋根のかなたに」について記事を書いた。永井荷風が「偶成」という題で訳したものだ。
さまざまな訳を見てみると、第1連後半の2行に大きな違いがあって気になった。
■原詩とさまざまな訳
問題は後半2行だ。以下、そこの訳だけ示す。
檳榔樹というのはヤシ科の常緑高木のことらしい。
手に入った大御所の訳はこんなところだ。木の葉が揺れているとするのは、永井荷風、堀口大学、渋沢孝輔だ。それに対して、鈴木信太郎は「檳榔樹」と木の種類を具体的に挙げている。また、河上徹太郎は「葉」ではなく「枝」とし、渋沢孝輔は「枝葉」としている。
ある論文では次のように訳されていた。
ただし、論文内では「第一詩節において、彼はぼんやりと夢現の状態で外の風景を眺めている。そこに見えるものは『空』と『棕櫚の木、なつめやし』だけである」(13頁)と述べている。訳には入れてないが木は特定しているようだ。
ネット上でもいろいろな人が訳している。
ここでもただの木としているものと、シュロやヤシの木としているものに分かれる。
こうなったらAIに頼ろう。
最初に出たのが第1候補、次のが別訳だ。
機械翻訳では、「手のひら」と「椰子」の両方がある。「木の葉」はない。
いったい、どっちなんだ!
■plameの訳
問題は原語の"palme"だ。『クラウン仏和辞典』には、「シュロ(ヤシ)の枝葉」とある。「手のひら」という訳はない。『スタンダード仏和辞典』でも同じだ。
でも英語の"palm"には「手のひら」と「ヤシの葉」という二つの意味があって、ラテン語の"palma"から来ているという。
羅和辞典まで引いてみる。"palma"は「手のひら」「シュロの枝」とある。
まあ、欧米では「シュロの枝」を「手のひら」に見立ててきたのだろう。手元の仏和辞典には特に「手のひら」という意味は記されてないが、フランス語はラテン語から来ているのだから、まあその意味もあると考えていいのだろう。うん、きっとそうだ。(と、決めつける)
■『獄中記』の記述
ところで、ヴェルレーヌは『獄中記』に、この詩ができたときのことを書いている。堀口大学の『ヴェルレーヌ詩集』や『日本の詩歌28 訳詩集』の注釈にその訳があるが、ここは思い切って自分で訳してみよう。
「ポプラの木(peuplier)」となっている! シュロやヤシの葉とポプラでは大違いだ。いったいどっちなんだ!
ヴェルレーヌは、詩を書いたのは「八月」、ブリュッセルにおいてだと述べている。
ピエール・プチフィスの伝記『ポール・ヴェルレーヌ』によれば、ヴェルレーヌは8月8日に最初の判決を受けた。8月27日には控訴審判決も出て、刑が確定した。10月25日にブリュッセルを離れ、モンスの刑務所に移った。
つまり、詩「空は屋根のかなたに」は、ブリュッセルの監獄で書かれたと考えていいだろう。モンスの刑務所ではないし、またカトリックに改宗してからでもない。逮捕されたのが7月10日だから、逮捕されて間もない頃だ。
ブリュッセルはヨーロッパの北のほうにある。ここにはシュロやヤシの並木はさすがにないのではないか。南フランスならともかく。(南フランスの町カンヌの映画祭の最高賞はパルム・ドール(Palme d'Or)で、「黄金のヤシ(シュロ)」という意味だ。)
■結論
ということで結論だ。
"palme"には「シュロ・ヤシの枝葉」と「手のひら」の両方の意味があるのだろう。そしてヴェルレーヌは「手のひら」の意味で使った。木の葉を「手のひら」にたとえたのだ。だが、「手のひらをゆすっている」ではわかりにくいので、大御所たちの多くは「木の葉をゆすっている」と訳したのだ。
機械翻訳はそういう配慮ができないので、「手のひら」と「ヤシの葉」のどちらかになったのだ。
詩だけを見れば、「シュロ・ヤシの葉」と訳せないことはない。というより、そう訳すのが普通だろう。しかし、ヴェルレーヌがこれだけはっきり言っているし、場所が北方のブリュッセルであることも勘案すると、そうは訳しにくい。「てのひらを/ゆすっています」という橋本一明の直訳もあるが、「木の葉をゆすっている」のほうがわかりやすくていいのではないか。まあ、これは好みの問題かも。
ところで、シュロとヤシってどう違うのだろう? それに、シュロやヤシには枝ってあるのか? 葉っぱだけなのか? あいつらはそもそも木なのか、草なのか?
もう調べるのに疲れた……
■参考文献
河上徹太郎訳:『世界名詩集14 マラルメ 詩集/ヴェルレーヌ 叡智』平凡社
渋沢孝輔訳:安藤元雄・入沢康夫・渋沢孝輔編『フランス名詩選』岩波文庫
鈴木信太郎訳:『ヴェルレエヌ詩集』岩波文庫
永井荷風訳:『珊瑚集』岩波文庫
橋本一明訳:『世界の詩集8・ヴェルレーヌ詩集』角川書店
堀口大学訳:『ヴェルレーヌ詩集』新潮文庫
大熊薫「Le ciel est, par-dessus le toit, におけるヴェルレーヌの魂の状態」、『熊本大学社会文化研究』第2巻、2004、1-16頁。
ピエール・プチフィス『ポール・ヴェルレーヌ』平井啓之・野村喜和夫訳、筑摩書房、1988
Paul Marie Verlaine: CEuvres en prose complètes, texte établi, présenté et annoté par Jaques Borel, Gallimard, 1972、337頁。『獄中記(Mes prisons)』は1893年発表。