ツェランの詩「頌歌」―あなたを讃えよう いない者よ
パウル・ツェランの詩「頌歌(Psalm)」は、1961年に書かれ、1963年刊行の詩集『誰でもない者の薔薇(Niemandsrose)』に収められた。
1944年から1945年にかけて書かれたと推定される「死のフーガ」から15年以上経って書かれたものだが、詩の背景となっているのは依然としてホロコーストだ。
この詩もツェランの代表作の一つで、「ドイツ現代詩のアンソロジーには殆どもれなく収録されている」(★1)という。
■ヨジロー訳
■語句の説明
題:頌歌――神を讃える歌。原詩ではPsalm。旧訳聖書の『詩篇』を意識している。『詩篇』はドイツ語では"Buch der Psalmen"で、「讃歌の書」の意。『詩篇』には、150篇の神への讃歌(Psalm)が収められている。
塵――「再び塵になる」といえば「死ぬこと」を意味する。
花柱――雌しべの柱の部分。
花糸――雄しべの柱の部分。
花冠――花びら全体。
■解釈
◆第1連
「私たちを再び土と粘土からこね上げる者」とは、人間を創造した神のこと。旧約聖書の創世記の記述、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた」(創世記2:7)を踏まえている。
「私たちの塵について語る者は誰もいない」もまた、人は死んで再び塵に戻るという創世記の記述(創世記3:19「あなたは塵だから、塵に帰る」)を踏まえている。「私たちの塵」とは死者たちのことだ。
「私たちの塵について語る者」も神のことだ。
第1連が述べているのは、かつて神が人間の生死を司っていた、しかし、ホロコースト以後の世界にはもはや神は存在しない、ということだ。
◆第2連
第1連では「誰もいない」が何度も繰り返される。「誰もいない」はドイツ語ではniemandだ。英語のnobodyにあたる。
第2連では、このniemandという不定代名詞が、Niemandとなる。語の冒頭が大文字となるのはドイツ語では名詞化されたことを意味する。つまり、「いない者」となる(★2)。
「いない者」とは神を指している。
かつては神が人間を作り、再び土に返した。人間は創造主である神を讃え、神に「向かって」、神のために「花咲こう」として生きた。人間の存在の意味はそのようにして根拠づけられていた。それは自明のことだった。
しかし、第2次大戦が終わってはっきりしたのは、神が存在しないということだ。
だから、「あなたを讃えよう、いない者よ」「あなたのために/私たちは花咲こう」は、神の不在に対する痛烈な皮肉だ。
◆第3連
明らかになったのは、神が「いない者」であり、従って人間が「無」であるということ。過去も実はそうだったし、現在もそうであるし、さらに未来もずっとそうなのだということ。だから人間は「無の薔薇」と言われる。
◆第4連
「無の薔薇」がどのようなものかを示している。
二つ目の行は「荒涼とした」があるので否定的な印象を与える。ところが最初の行は、「明るい魂の色」と肯定的な印象だ。ちぐはぐな感じがする。
「明るい魂の色」は原語ではseelenhell(魂のように明るい)だ。おそらくツェランの造語で、Seele(魂)とhell(明るい、澄んだ)を組み合わせている。
ツェランの草稿にはseelenhell(魂のように明るい)ではなく、seelenschwarz(魂のように黒い)となっているものがあるとのことだ(★3)。
ツェランはどうしてseelenschwarzをseelenhellに変えたのか。
第1連から第3連までを読むと、「私たち」とは第2次世界大戦を経験した人間たち、また大戦後の人間たちすべてのことだと感じる。
しかし、最終連の「私たち」は明らかに戦争で激しい苦痛を被った人々、特にユダヤ人たちのことを言っている。
ツェランは彼らの魂にschwarz(黒い)という形容詞を使いたくなかったのではないか。ユダヤ人たちの魂は、魂が絶望の黒に染められているとも言えるが、それはそうさせられているからだ。魂自体はhell(明るい、澄んだ)もののはず。ツェランは被害者たちの魂を黒くしたくなくて、修正したのではないか。
また、次のようにも思う。seelenhell(魂のように明るい)は辞書にはないが、Seelenheilならある。これは「魂の救済」という意味だ。これをもじっているのではないか。もはや「魂の救済」などないのだ。花柱=魂は、ただ明るく澄んでいるだけ。
そして花びらの赤。棘と緋色は当然血を連想させる。「私たち」が「棘の上で」「緋色の言葉で歌った」とは、ユダヤ人たちがナチスの蛮行によって辛酸を嘗め尽くしたということだ。
■おわりに
これまでの神と人間の関係は、アウシュヴィッツを経た後は、「いない者」と「無の薔薇」の関係となる。
人間が神を讃えるものだった「頌歌」は、「無の薔薇」が「いない者」を讃える「頌歌」となる。
「痛烈な皮肉」と上では書いたが、少し修正しておこう。単なる皮肉や非難以上に、深い絶望がある。
■注
★1:関口裕昭、313頁。
★2:カフカの短編「山に遠足」やリルケの墓碑銘「薔薇よ 純粋な矛盾よ」と同じ仕方。ツェランはリルケに大きな影響を受けているが、カフカの「山に遠足」も愛読し、ルーマニア語に訳したこともある。(北彰、232頁)
★3:北彰、233頁。
■参考文献
相原勝『ツェランの詩を読みほどく』みすず書房、2014
北彰「頌歌」の注釈、中央大学人文科学研究所編『ツェラーンを読むということ : 詩集「誰でもない者の薔薇」研究と注釈』、中央大学出版部、2006
関口裕昭『評伝パウル・ツェラン』慶應義塾大学出版会、2007
冨岡悦子『パウル・ツェランと石原吉郎』みすず書房、2014
『聖書』聖書協会共同訳、日本聖書協会、2018
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