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カフカ『一枚の古文書』―訳と解釈

カフカの『一枚の古文書』は、短編集『田舎医者』(1920)に収められている短篇。全体を訳し、大胆な解釈をしてみた。

カフカ『一枚の古文書』

 私たちの祖国の防衛に関しては多くのことがなおざりにされてきたようだ。これまで私たちはそのことを気にもかけず、自分たちの仕事にかまけていた。だが、最近の出来事を見ると心配になる。
 私は皇帝の宮殿前の広場で靴屋を営んでいる。朝まだ薄暗いうちに店を開けると、すぐに目に入ってくるのは、広場に通じるすべての小路の入口が武装集団によって占拠されているありさまである。我が軍の兵士たちではなく、明らかに北方から来た遊牧民だ。どうやってかはわからないが、彼らは首都にまで侵入してきたのだ。国境から遠く離れているというのに。いずれにしろ、彼らはそこにいた。朝ごとに、数が増えてくるように思われる。
 性分なのだろうが、彼らは野外で寝る。というのも、家というものを嫌悪しているからだ。剣を研ぎ、矢の先をとがらせ、乗馬の訓練をしている。この静かな、いつも不安になるほどきれいに保たれた広場を彼らはまったくの馬小屋にしてしまった。私たちはときどき仕事の手を休めて、少なくとも最悪の汚物だけは片づけようと試みるのだが、それもどんどん稀になっている。というのも、頑張ったところで無益であるばかりか、荒々しい馬に踏まれたり、鞭で怪我をしたりする危険があるからだ。
 遊牧民と話すことはできない。彼らは私たちの言語を知らないし、自分たちの言語は持っていないと言っていいのだ。お互い同士は、カラスの鳴き声のようなもので理解し合っている。このカラスの叫び声がいつもいつも聞こえる。私たちの生活の仕方、私たちの作り上げたものは彼らには理解できないし、また関心もない。それゆえ彼らはあらゆる身ぶり言語に対しても拒否的だ。顎をはずし、手のひらを関節からねじり取ってみても、彼らは理解しなかっただろうし、これからも理解することはないだろう。しばしば彼らはしかめっ面をする。そのときは白眼をむいて、口から泡を吹く。しかし、それでもって何かを言おうとしているわけでも、脅かそうとしているわけでもない。そうするのは、それが彼らのやり方だからだ。彼らは必要とするものは取っていく。彼らが暴力をふるうとは言えない。彼らが手を伸ばさないうちから、私たちは脇に寄り、彼らに好きなようにさせるのだ。
 私の蓄えも彼らはたっぷりと奪っていった。しかし、それを嘆くことはできない。たとえば向かいの肉屋がどんな目に遭っているかを見ているからだ。売り物を仕入れた途端に何もかも奪われ、遊牧民たちが丸呑みにしてしまう。彼らの馬もまた肉を食べる。よく馬の乗り手が馬と並んで寝っ転がり、両者が同じ肉の塊を食べていることがある。それぞれが一方の端にかじりついている。肉屋はびくびくしており、肉を提供するのをやめられないでいる。私たちも彼の気持がわかるので、お金をかき集め、助けている。肉が切れたら遊牧民たちが何をしでかすか、わかったものではない。もちろん、毎日肉をあてがわれたとしても、彼らが何を思いつくかはわからないのだが。
 最近のことだが、肉屋は、少なくとも屠殺の手間は省けるのではないかと考え、朝のうちに生きている雄牛を一頭連れてきた。こんなことは二度としてはならない。私は一時間ほど作業場のいちばん奥の床にうずくまり、ありったけの衣類と毛布とクッションをかぶっていた。それもただ、雄牛の咆哮を聞かないためだ。遊牧民たちは四方八方からそいつに飛びかかり、歯で温かい肉を食いちぎっていたのだ。長い間経って静かになったとき、私は思いきって外に出てみた。ワイン樽のまわりの酒飲みたちのように、彼らはだらっとして雄牛の残骸の周囲に横たわっていた。
 ちょうどそのとき、私は宮殿の窓の一つに皇帝自身のお姿を見かけたような気がした。ふだんは決してそうした外が見える部屋においでになることはない。いつもずっと、いちばん奥の庭で過ごしておられる。このたびはしかし、陛下は窓辺に――少なくとも私にはそう見えた――お立ちになり、頭を垂れて王宮前の騒動をご覧になっていた。
 「これからどうなるんだろう?」私たちはみんなで言い合っている。「どれだけの間、この重荷と苦しみに耐えることになるのか? 皇帝の宮殿が遊牧民たちを引き寄せたのに、宮殿はどうやって彼らを追い払ったらいいのかを知らない。門は閉ざされたままだ。以前はいつも儀式ばった行進をしながら出入りしていた衛兵たちは、格子窓の奥から出てこない。私たち職人や商人に祖国の救済が託されている。しかし私たちにはそのような任務を果たす力がない。そのような能力があると誇ったことだって一度もない。誤解だ。そしてそのために私たちは滅んでいくのだ。」(ヨジロー訳)

解釈

何を描いているのか。これは長い物語の一部なのか、それともこれはこれで完結しているのか。「私たち」は遊牧民をどのようにして撃退するのか。遊牧民たちはそもそも追い払われることになるのか。窓からちらと姿を見せた皇帝は何を考えているのか。なぜ彼は何もしないのか。

この短いテキストを読むとき、さまざまな疑問が浮かぶ。

題名は「一枚の古文書」となっている。作者は物語全体を、一枚の古文書に書かれた古い伝説という体裁にして箔をつけている。

だが、思い切って解釈してみよう。これはこれだけで完結した物語であり、描かれているのは、カフカ家における祝宴のようすだ。

遊牧民とは、祝い事のためにカフカ家を訪れた親戚たちのこと。カフカは彼らを遊牧民として、自分とは言葉も文化も違う、まったく理解できない異邦人として描いている。

そう考えると、

私たちの祖国の防衛に関しては多くのことがなおざりにされてきたようだ。

という冒頭のものものしい一文のおかしさがわかる。

菜食主義者だったカフカの目から見た、肉を食べる人々の姿――それが誇張され、歪曲され、茶化されている。

「彼らは野外で寝る」というのは、訪問客たちが家の中のそこら中に腰を下ろしたりしているようすを表している。また「剣を研ぎ、矢の先をとがらせ、乗馬の訓練をしている」というのは、『新しい弁護士』でも剣の譬えが用いられているように、言葉を使って相手を打ち負かそうと準備しているということだ。

「私たち」は、彼らとはコミュニケーションができない。言葉が通じないし、身ぶり言語も違う。「私たち」と複数となっているが、カフカ自身のことだ。カフカは、自分の言葉が家族や世間の周囲の人々には通じないと考えていた。

お互い同士は、カラスの鳴き声のような声で理解し合っている。何度も何度もカラスの叫び声が聞こえる。

「カフカ」は原語で<Kafka>と綴るが、チェコ語の<Kavka>は「ニシコクマルガラス」の意。カフカの父親はこの鳥を、自身が経営する装飾品店のシンボルマークにしていた。「カラス」の譬えが用いられているのは、訪問客にカフカの父親の親族――つまり、皆Kafkaの姓を持つ――がいたためだろう。息子カフカの側から見れば、家族や親戚たちの言葉のやりとりがどうして互いに通じ合うのかが不可解に見える。そのことを誇張して表現している。痛烈な皮肉だ。

私たちの生活の仕方、私たちの作り上げたものは彼らには理解できないし、また関心もない。

彼らは、カフカがどのような生き方をしているのか、何を考えているのかなどにはまったく興味がない。

それゆえ彼らはあらゆる身ぶり言語に対しても拒否的だ。顎をはずし、手のひらを関節からねじり取ってみても、彼らは理解しなかっただろうし、これからも理解することはないだろう。

カフカのユーモアの真骨頂だ。訪問客たちがカフカの身ぶり言語――たとえば、酒を断るしぐさ――をまったく理解してくれないと言っているのだが、それを唖然とするような誇張法を使って表現している。顎をはずしたり、手のひらをネジのようにおぐるぐる回して関節からはずしてみせても、「彼ら」はわかってくれないというのだ。カフカが調子に乗って楽しんで書いていることがわかる。

そのとき彼らは白眼をむいて、口からは泡を吹く。しかし、彼らはそれでもって何かを言おうとしてるのでもなければ、脅かそうとしているのでもない。彼らがそうするのは、それが彼らのやり方だからだ。

「白眼をむいて、口からは泡を吹」いているのは、夢中になって自説を吹聴している人々か。カフカは、「それが彼らのやり方」であって、「何かを言おうとしてるのでもなければ、脅かそうとしているのでもない」と考えることで、あっさりとやり過ごす。

カフカは人々の表情だけを冷静に眺めて描写している。表情だけが注視されれば、無声映画の俳優の表情のようにすさまじいものとなる。

売り物を仕入れた途端に、何もかも奪われ、遊牧民たちが丸呑みにしてしまう。彼らの馬もまた肉を食べる。よく馬の乗り手が馬と並んで寝っ転がり、両者が同じ肉の塊を食べていることがある。それぞれが一方の端にかじりついている。

肉を奪い合う遊牧民たち。これは食卓での招待客たちのようすだろう。「馬の乗り手」がたとえばそれぞれの家の家長、つまり父親で、「馬」がその家族だろうか? 両者が同じ肉の塊にかじりついて奪い合っているとうのは、もちろん誇張。それほどの勢いで肉を食べているということだ。戯画化されており、まるでブリューゲルの絵画の一部のようだ。

なお、馬は草食動物だから本来肉を食べないはずだが、ここでの馬は肉を食べることになっている。

遊牧民たちが生きた雄牛にかじりつく場面が、物語のクライマックスである。カフカの筆に勢いが出て、行きつくところまで行ったという感じだ。

 最近のことだが、肉屋は、少なくとも屠殺の手間は省けるのではないか、と考え、朝のうちに生きている雄牛を一頭連れてきた。こんなことは二度としてはならない。私は一時間ほどになろうか、作業場のいちばん奥の床に横たわり、ありとあらゆる服、毛布、クッションを自分の上に積み重ねていた。それもただ、雄牛の咆哮を聞かないためだ。遊牧民たちは四方八方からそいつに飛びかかり、歯で温かい肉を食いちぎっていたのだ。

「私たち」の恐怖と戦慄がまざまざと伝わる。

だが、こんなふうに考えてみたらどうだろうか。私たちはたとえば、食欲旺盛な人に向かって、牛を一頭まるごと食べてしまいそうな勢いだね、などと言ったすることがある。それを具体的な映像にしてみたものが上の一節だ、と。

カフカのユーモアが絶頂に達している。「こんなことは二度としてはならない」が爆笑ものだ。

豪勢な食事を終えてくつろいでいる人々のようすは、「ワイン樽のまわりの酒飲みたちのように、彼らはだらっとして雄牛の残骸の周囲に横たわっていた」と描写される。

最後に登場する皇帝は、カフカの父親だろう。

いつもずっと、いちばん奥の庭ですごしておられる。このたびはしかし、陛下は窓の一つの前にお立ちになり(……)頭を垂れて宮殿前の騒動をごらんになっていた。

カフカは家族の最高権力者である父親を、わざと高みに持ち上げ、重々しい皇帝としてパロディ化する。静かに騒動を見ている皇帝。憂慮しているかのように見えるが、何もしない。

当然だ。「皇帝の宮殿が遊牧民たちを引き寄せたのに」とあるように、客を招待したのはカフカの父親なのだから、追い払ったりするはずがない。

最後は困っている「私たち」の言葉で終わる。そう、人々の集まりを嫌うカフカは、親戚が家中にたむろしている状態に途方に暮れている。カフカは、「私たちは滅んでいくのだ」と絶望の叫びを挙げる。これももちろん誇張だ。

まとめ

祝宴に参加するためにやってきた親戚たちを見ながら、カフカは祖国侵略の物語を作り上げている。現実を異化し、茶化すことで、心の平衡を得ようとしている。読者にとってはとてつもなくおかしい風刺となっている。

カフカは現実を核として書き始める。ここでの場合は家での祝宴だ。それが遊牧民の侵入という幻想となる。そして幻想が幻想を生み、また言葉自体が生み出す連想もあって、元になった現実から乖離していくこともある。だが、カフカは幻想を転がしていくことを楽しんでいる。

カフカの作品には深刻なものばかりでなく、ユーモラスなものも多い。ただ、カフカのユーモアは独特で、わかりにくくはある。

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