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谷川俊太郎の詩「二十億光年の孤独」を読み解く

  二十億光年の孤独
 
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
 
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或は ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
 
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
 
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
 
宇宙はどんどんふくらんでゆく
それ故みんなは不安である
 
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

詩集『二十億光年の孤独』(引用は『自選谷川俊太郎詩集』より)

最初この詩を読んだとき、あっさりした詩だな、と思ったくらいだった。

しかし、その後かなりの時間が経って、萩原朔太郎の詩「竹」を読んだ直後に、この詩を再読したときの感動は忘れられない。

「竹、竹、竹」で、体中が竹にからみつかれたような息苦しさを感じていたが、谷川の詩によって、清らかな水を飲んだかのように竹がほぐれ、すっと消えていった。


■解釈

★第1連
「小さな球」――地球のこと。広大な宇宙から人間の生きている世界を俯瞰すると、地球は「小さな球」となる。また、そこでの人間の活動は〈眠ること、起きること、働くこと〉に単純化される。

ただ、そんなふうに生きているだけで人間は満たされるわけではない。地球とは違った異星に仲間がほしいと思う。

★第2連
火星もまた「小さな球」にすぎない。

そこで火星人は何をしているか。「ネリリし キルルし ハララしているか」と言われる。

火星人が何をしているのかはわからないし、またそれを表現する地球語もないはず。だから、仮りに「ネリリする」「キルルする」「ハララする」と表現してみている。作者のユーモアだ。

「ネリリ、キルル、ハララ」は、第1連の人間の活動、「眠り起きそして働き」に対応している。「ネムリ」「オキル」「ハタラク」から、それぞれ「ネ」と「リ」、「キ」と「ル」、「ハ」と「ラ」を取り出して作者が造語したのだろう(★1)。かわいらしい音だ。

火星人もまた地球人を求める。地球人も、火星人も、自分たちだけでは孤独だ。異星人を求めないではいられない。

「それはまったくたしかなことだ」と確信を持って言われる。人間が孤独であることは、そして誰かを求めずにはおれないことは、「僕」にとって絶対的真実なのだ。

★第3連
「引き合う孤独の力」が万有引力とされる。万有引力の詩的定義だ。

宇宙になぜ万有引力があるのか。それはそれぞれの惑星の住民が孤独だからだ。

★第4連
「宇宙はひずんでいる」――宇宙に歪みがあるというのは、アインシュタインの相対性理論で唱えられた考え方。詩が書かれた当時の新しい宇宙観を取り入れている。

それぞれが、それぞれだけでは完全ではない。それぞれに歪みがある。それぞれが心に空洞を抱え、欠落を感じている。だから「もとめ合う」。

★第5連
「宇宙はどんどん膨んでゆく」――当時一般に知られるようになった宇宙膨張説(ビッグバン理論)を取り入れたもの。

宇宙が膨らんでいくということは、天体同士の距離がどんどん広がっていくことだ。つまりは人間同士が離れていくということ。だから人は、自分がとり残されていくのではないかという「不安」を日々感じる。

★第6連
「二十億光年の孤独」――「二十億光年」は、当時宇宙の直径と言われていたもの(★2)。「二十億光年の孤独」とは、宇宙全体が「孤独」で満たされていること。

想像すると恐ろしい。だが、作者はその恐ろしさをそれほど深刻には感じ取っていない。

「僕」の反応は「くしゃみ」一つだ。え、それだけなの? と思う。この軽みが心地よい。

宇宙の果てまで連れ出された読者は、くしゃみによって一気に日常的現実に連れ戻される。

くしゃみをするのは、宇宙を満たす孤独を想像して、ぞくっと寒気がしたためだ。

宇宙全体の孤独とくしゃみ一つが天秤に載せられる。そして両者が強引につり合わせられる。

夜、さびしくなって家を出、野原で空を見上げていた「僕」は、くしゃみをしたことで少し安らかな気持ちになって、家に戻る。

みんな孤独なのだ。

★まとめ
孤独、求め合い(愛)、不安などの人間の心情を、宇宙的規模に移し替えて表現したもの。そうすることによって、本来はもっと重苦しいものが蒸留され、透明感を獲得している。

■さまざまなコメント

◆くしゃみについて

議論は、詩の最後の「くしゃみ」をどう解釈するかに集中している。

★沖藤一昌
沖藤一昌は『作品別文学教育実践史事典・第二集―中学校・高等学校編―』で、さまざまな解釈を紹介している。

長谷川龍生

広大なる空間の距離の概念に対する瞬間のおもしろさが出ていて、人間の確かな実在感がありありと判明してくる。くしゃみは明らかに現存する「僕」という人間の物理的主張である。

『作品別文学教育実践史事典・第二集―中学校・高等学校編―』183頁

阿毛久芳

孤独に充足する〈僕〉に、詩人はくしゃみをさせて、身近な現実にひき戻る感じを楽しんでさえいる

同上183-184頁

ある大学生男子

「くしゃみ」をすることで、観念と想像が再び出発点である個人に帰着するのである

同上184頁

ある高校1年生

二十億光年もはなれて、孤独だから寒くてくしゃみしたのだろう。

同上184頁

谷川俊太郎自身のコメント

これ(=くしゃみ)を一種のオチと見る人もいるが、自分ではそうは思いたくない。当時の私はそれほどすれていなかったはずだ。

同上184頁(『ことばを中心に』では169頁)

沖藤一昌自身は、上に挙げた高校生1年生の解釈をとる。さらに、次のように付け加える。

第五連までは、彼(=「僕」)の脳髄のつむぎ出す観念の世界であり、その観念がしだいにふくらんでゆき鼻から大きくぶらさがる。くしゃみによってその風船がわれ、ふっと我に返る。その結果、そこまでの自分の観念を外側から見る視点を獲得している。(……)別言すれば、自らの観念を絶対化し、それへとのめり込むのではなく、そこまでで自分の構築してきたイメージ全体を無化するのである。

同上184頁

「鼻から大きくぶらさがる」というのはちょっとなあ……。でも、それ以外はもっとも。

★山田かおる
谷川俊太郎との対談で、次のように述べている。

ぼくは、この「僕は思わずくしゃみをした」というフレーズには虚をつかれたんですね。最後の最後になって、少年の肉体性みたいなものに、はっと気づかされたわけです。で、それが、前のほうの、宇宙について語る各フレーズに波及していきますね。それで、抽象的に見えていたフレーズのすべてに、さーっと少年の血を通わせるような効果を感じました。このフレーズで詩が変わったと思います。

『ぼくはこうやって詩を書いてきた』64頁

なるほど、「肉体性」か! これは上の長谷川龍生の「人間の確かな実在感」と同じ理解だ。

山田の発言に対して谷川俊太郎は次のように応じている。

それはつまり、理性ではどうこう解決しようのない、存在の条件みたいなことが、そこには出ているんだろうなって思うんですけれど。

同上64頁

★萩原昌好
萩原昌好は「くしゃみ」を「うわさ」と関連づける。

最後の「僕は思わずくしゃみをした」という結びが、この詩全体を明るくからりとしたものにしています。もしかしたら、火星人が「僕」のことをうわさしたのかもしれませんね。

『日本語を味わう名詩入門19 谷川俊太郎』22頁

★西原大輔
西原大輔は「くしゃみ」について、「宇宙のビッグバンの連想か」(43頁)と言う。なるほど! また、「くしゃみ」の効果を次のように解している。

語り手の「孤独」「不安」は、末尾で「くしゃみ」に吹き飛ばされ、詩が泥くさい人生論に陥ることはない。この洒落た哲学的ポーズや軽妙な言語感覚が、戦後の若者の新しい作品として支持を得た。

『日本名詩選3』44頁

「詩が泥くさい人生論」「この洒落た哲学的ポーズ」などをみると、西原はこの詩をあまり評価していないのかも。

ネットのほうでも探してみた。

守本進(筑摩書房のサイト「ちくまの教科書」)

「詩人がくしゃみをするのは?」そう、火星人が同じように人類のうわさ話をしているからなのです。(……)たしかに、くしゃみの原因をうわさ話だと特定することはできません。単なる俚諺りげんです。ただ、詩人がくしゃみをした時、詩人にはそういうことがひらめいた、連想をしたということなのでしょう。ただ、そのひらめきや連想の中において、宇宙の孤独者同士の距離は近づいたということなのです。少し元気の出る驚きです。

L(サイト「LOOM」)

一体なぜ、ここにくしゃみが登場するのだろうか。宇宙という規模から、くしゃみによって、突然自分の世界に引き戻される。特に身体現象というのは、はっきりと「現実」であり、夢から覚め、ふと我に帰ってぽつんと一人存在している自分、というのを置きたかったのではないかと思う。

Lもまた、身体性を感じている。

山口裕礼ひろみち(ブログ「クリニックだより」)

詩の最後、「二十億光年の孤独に 僕は思わずくしゃみをした」というフレーズは、宇宙規模の途方もない孤独に対して、人間の生理的な反応というユーモラスな描写で締めくくられています。/この一文は、広大な宇宙と人間のちっぽけな存在を対比し、孤独を深刻に捉える一方で、その中にある日常的でシンプルな行動が生きる証であることを示唆しています。

◆詩全体について

★大岡信

二十億光年の孤独という言葉の意味も、単に少年期から青年期にうつりつつある谷川俊太郎個人の孤独ということではなかろう。むしろ地球人なるものが、この二十億光年のひろがりをもつ大宇宙の片隅で、時おり感じとる、人類的な孤独感をさしているだろう。

『谷川俊太郎』角川文庫、1968、306頁

★沖藤一昌

先験的な青年期の孤独と不安を、軽みを持たせて表現したところに、この詩の新しさがあったと考えたい。

『作品別文学教育実践史事典・第二集―中学校・高等学校編―』183頁

★西原大輔

不安や孤独の中で人とのつながりを求めようとする、青年期特有の思いを語った詩。

『日本名詩選3』44頁

詩に関する専門家の批評はあまり多くないようだ。

■おわりに

最後に、谷川俊太郎自身の言葉をいくつか引いておく。

自分の座標を決めたい

僕はちょうど自我に目覚める時期に、「自分がいったいどういう場所にいるんだろうって、自分の座標を決めたい」っていう気持ちがすごく強かったんですね。それで、自分は日本に住んでいて、日本はアジアにあって……みたいなことで、ずっと自分の座標を周囲に広げていくと、結局、宇宙に行き着いてしまって。

『詩を書くということ』59-60頁

人間関係の中での孤独を知らず

ひとりっ子で恵まれた環境に育った十九歳の私は、まだ人間関係の中での孤独を知らず、むしろ無限といっていい宇宙の中に投げ出された一有機体としての自分を、さみしさとか、ひとりぼっちとかの感情をあまり伴わずに、孤独と規定していたようだ。

『ことばを中心に』168頁

「十九歳」と言っているが、詩が書かれたのは1950年5月1日(★3)なので、実際は18歳だ。

谷川は高校を卒業したばかりだった。大学に進学することもなく、詩を書いたりしながら、家でぶらぶらしていた。

一人であることのさびしさは感じていただろう。他者を求める気持ちが自分の中にあることを自覚していただろうし、とり残されていくのではないかという不安も抱えていただろう。しかし、まだ本格的には人と関わっていなかった。

だからこそ、このような澄みきった詩が生まれたのだ。

■注

★1:北川透も、「これは〈寝る〉〈起きる〉〈働く〉の音韻の連想から生まれたものでしょう」と推測している(『谷川俊太郎の世界』14頁)。谷川俊太郎自身は、「火星語に翻訳したんですよ(笑)。まあ、ユーモアと言ってもいいでしょうね」(『ぼくはこうやって詩を書いてきた』63頁)と語っている。

★2:谷川俊太郎自身が、「二十億光年は当時の私の知識の範囲内での、宇宙の直径を意味している」(『ことばを中心に』168頁)と述べている。

★3:『自選谷川俊太郎詩集』に収められたこの詩の末尾に「50・5・1」とある。

■参考文献

◆谷川俊太郎の著作
『自選谷川俊太郎詩集』岩波文庫、2013

『現代の詩人9 谷川俊太郎』大岡信・谷川俊太郎編、中央公論社、1983

『ことばを中心に』草思社、1985

谷川俊太郎・山田馨『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』ナナロク社、2010

◆文献
大岡信 →『現代の詩人9 谷川俊太郎』

沖藤一昌「高等学校一年 二十億光年の孤独(谷川俊太郎)」『作品別文学教育実践史事典・第二集―中学校・高等学校編―』浜本純逸・松崎正治編、明治図書、1987

北川透『谷川俊太郎の世界』思潮社、2005

西原大輔『日本名詩選3』笠間書院、2015

萩原昌好『日本語を味わう名詩入門19 谷川俊太郎』あすなろ書房、2013

山田かおる →谷川俊太郎・山田馨『ぼくはこうやって詩を書いてきた』

◆ネット
L「二十億光年の孤独とくしゃみの効果」(サイト「LOOM」)
https://ban-ka.net/kushami/

守本進「浪速のスーパーティーチャー守本の授業実践例」(筑摩書房のサイト「ちくまの教科書」)
https://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho/tsuushin/rensai/jugyou/001-03-02.html

山口裕礼ひろみち「谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」とその深い意味を探る」(ブログ「クリニックだより」)
https://yamaguchi.clinic/blog/e_29414.html

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