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斎藤茂吉の短歌「沈黙のわれに見よとぞ……」はいつ詠まれたか
しばらく前に、斎藤茂吉の短歌、
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
についての記事を書いた。
書いているうちに、この歌がいつ詠まれたのかが気になってきた。
それで調べ始めたが、深みにはまってしまった……。
■「手帳五十五」の記述
◆全集での「沈黙の」の歌の位置
『斎藤茂吉全集』第28巻には「手帳五十五」があり、そこに「沈黙の」の歌も載っている。
後の説明にも関係してくるので、ここでは歌の前後も含めて、544頁から547頁までを画像で示す。
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「沈黙の」の歌が載っているのは、546頁の5行目(空行を数えず)だ。
直前に、9月4日の『週刊朝日』用の歌5首と、9月5日の「読売新聞」用の歌5首がある。さらに空行があって、その後となっている。
これを見ると、「沈黙の」の歌は9月5日以降に作られたように見える。
しかし、『週刊朝日』用の歌と「読売新聞」用の歌に「紙片貼付」とあるのが気になる。全集の「後記」によれば、これは編者が付け加えた注だ。
この2枚の紙片はどのように貼り付けられているのか。
◆実際の手帳では?
「斎藤茂吉記念館」に問い合わせ、写真を撮ってもらった。
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う~む、すごい! これが創作の現場か! それにしても、全集の編者たちはよくこれを解読したものだ……。
それはさておき、手帳原本1を見ると、「生けらむ限」という題の後に「秋づきし蝉のもろごゑ」の歌があって、その後に紙片が貼り付けられている。
記念館の学芸員さんによれば、9月4日の『週刊朝日』用の歌と9月5日の「読売新聞」用の歌の二枚の紙片が重ね合わせられ、上部が糊づけされているということだった。
つまり、「秋づきし蝉のもろごゑ」の歌に続く、「農産をせざるやからは」から「荷物の一つ出来ぬのを」の歌までが、紙片が貼り付けられたことによって隠された。「鈴虫のこもりて鳴ける」からは、またきちんと見えるようになっている。
茂吉はこのあたりが9月4日頃の場所と判断して貼り付けたのだろう。
そして貼り付けられた紙片をはがせば、「生けらむ限」という題の後、「秋づきし蝉のもろごゑ」から始まる歌は、「沈黙の」と「こゑひくき帰還兵士の」の歌まで続いている。
全集では「鈴虫のこもりて鳴ける」と「大きなるうづに吸はるる」の歌の後に二つの「紙片貼付」が来る。さらに空行があって「沈黙の」の歌が来る。
だから、「大きなるうづに吸はるる」と「沈黙の」の歌の間には時間的な空きがあるように思えるのだが、必ずしもそうでもなさそうだ。
となると、9月4日に「沈黙の」の歌は作られたのか?
いや、茂吉は行間を開けずに手帳にずらずらと歌を書いていくようなので、やはり日付けがないとはっきりしたことはわからない。
でもまあ、9月4日以降だろうとは言えるのではないか。
◆「沈黙の」の歌以降の手帳の記述
では、9月4日以降いつまでの間に作られたと言えるのか。
「沈黙の」の歌と、それに続く「こゑひくき帰還兵士の」の歌の後の記述も解読してみよう。以下に全集の記述を示す。
半郷54鏡吉兵衛氏方、内藤二郎氏
○五月十九日 半田良平氏没(弔ふ)
○かなしくもあるか君の訃を知りし時はすでに百日まへに死してゐたりき
○米英蘇ぞくぞく進駐
○進駐の地区のありさま秘め秘めて時のながれの疾(ハヤ)くもあるか
○いかならむゆゑよしなるかわれ知らず夜は夜すがら安寝しせぬを
○十年(じふねん)ののちにしづかにかへりみてわがけふの日を子等は知らなむ
○何ゆゑの心みだれと人な問ひそ天地(あめつち)くらくみだれむとする
○九月十日、古峯神社旧跡(窿應上人書)
丶○天(あめ)なるや日てりそめたるころに来て小松のかげに心しづむる
(以下歌が続く)
◆「半郷54鏡吉兵衛氏方、内藤二郎氏」
「半郷」は半郷村のこと。茂吉のいる金瓶村からは20分ばかりのところにある。郵便局があったので、手紙を出すために茂吉はしばしば訪れている。
「半郷54」は、半郷村54番地のことだろう。「鏡吉兵衛方」も併せて、住所表記となっている。
内藤二郎とは?
茂吉は、9月7日正午、横浜の佐伯藤之助(茂吉は彼に箱根の別荘を貸そうとしていた)から手紙を受け取っている。翌8日、ハガキで返信しているが、その中に「半郷の疎開者内藤二郎君をもそのうちたずねましょうかと存じます」とある。
つまり、佐伯は手紙で、近くに疎開している知り合いの内藤二郎を紹介したのだ。茂吉の知人でないことは、10月8日の佐伯宛ての手紙で茂吉が、「半郷の中野二郎氏」と誤記していることからもわかる。
おそらく佐伯藤之助からの手紙には内藤二郎の住所が書かれていたのだろう。茂吉はそれを手帳にメモしたのだ。いずれ訪ねるための覚えとして。
手帳原本を見ると、「半郷54鏡吉兵衛氏方、内藤二郎氏」は「こゑひくき帰還兵士の」の歌の上部に書かれている。
とすれば、「こゑひくき帰還兵士の」は9月7日に作られたか。とすれば、「沈黙の」の歌はそれ以前に作られたか。
いや、そうも言えない。手帳の空いたところにたまたまメモした可能性もあるからだ。
◆「○五月十九日 半田良平氏没(弔ふ)」
全集では、内藤二郎の居所をメモした後に、「○五月十九日 半田良平氏没(弔ふ)」がくる。
いきなり「五月十九日」という日付けが来るので混乱するが、これは栃木県出身の歌人である判田良平の亡くなった日付けだ。茂吉は誰かを通じてその死を知ったのだろう。
日付けに続いて、半田良平の死を3か月以上知らずに過ごしたことを悲しむ歌が記されている。「弔ふ」は、歌を通じて死を悼むの意。
◆「○米英蘇ぞくぞく進駐」
続いて2字下げて、「○米英蘇ぞくぞく進駐」がくる。
茂吉は、日付けを記入するときや、新たな項目を書くときに字下げをしているので、ここからは別の日と考えることができる。
「蘇」は「ソビエト」の略で、ソビエト社会主義連邦、つまり、ソ連のことだが、「米英蘇ぞくぞく進駐」とはどういうことか。
9月2日に日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書に調印、9月8日に連合国軍が東京を占領する(★1)。山形に米軍が進駐してくるのはずっと後の9月20日のことだから(★2)、茂吉の「米英蘇ぞくぞく進駐」は、この9月8日の東京占領のことだろう。連合国軍ではあるが、進駐してきたのは米軍だけである。
おそらく茂吉はラジオのニュースで東京占領のことを聞いて、「○米英蘇ぞくぞく進駐」と書き、悲しみの中で、「進駐の地区のありさま秘め秘めて」以下の4首(どれも悲嘆の歌)を詠んだと考えられる。それゆえこれは、9月8日のこととみていいのではないか。
3首目は、
十年ののちにしづかにかへりみてわがけふの日を子等は知らなむ」
「けふの日」というからには特別な日だ。だから東京が占領された日と考える。
9月8日付の横浜の佐伯藤之助への手紙でも、進駐に触れている。
○箱根も彼等の慰安所でしょうか。しかしこれも覚悟をせねばなりますまい。(……)○進駐ケモノ(=進駐軍)の状態などゆるゆる御観察御ねがいいたします(……)
箱根は茂吉の別荘のあるところなので気にしている。
◆「○九月十日、古峯神社旧跡(窿應上人書)」
東京進駐を嘆く歌の後に、2字下げて、「○九月十日、古峯神社旧跡(窿應上人書)」がくる。そして、歌が8首と俳句が1句続いている。
9月10日の茂吉の日記にも、「早坂新道の古峯神社旧址に至り沈思作歌七八首」とあるので、「九月十日」という日付けは間違いない。これ以降の歌は9月10日の歌だ。
◆手帳に「沈黙の」の歌が記入された日は?
以上見てきたところによって、「沈黙の」の歌が手帳に記入されたのが、9月4日から9月9日までの間であることはぼ確実だ。
また、「米英蘇ぞくぞく進駐」以下の部分を書いたのが9月8日なら、「沈黙の」の歌はそれ以前、つまり9月7日までの間に書かれたと考えられる。
さらに、「半郷54鏡吉兵衛氏方、内藤二郎氏」のメモ書きが、佐伯藤之助からの手紙を受け取った9月7日正午の後すぐに書かれたとすれば、このメモは、「沈黙の」に続く「○こゑひくき帰還兵士の」の歌の上に「○」をよけるように書かれているので、「沈黙の」が9月4日から9月7日午前までの間に記入されたことになる。
ふむふむ、だいぶしぼられてきたぞ。
次は別の面から迫ってみよう。
■9月上旬の天気は?
◆雨の日は?
「沈黙の」の歌は、「黒き葡萄に雨ふりそそぐ」で結ばれている。9月上旬の金瓶村の天気はどうだったのか。
ありがたいことに、茂吉は日記に天気を記している。やはり日記には天気はつきものだ。
茂吉によれば、9月2日から9日までの天気は以下のようになっている。茂吉の記述をカギカッコで示す。念のため、気象庁のサイトで山形市の当時の一日の降水量も調べてみた。マルカッコをつけたのがそれだ。
9月2日:「ハレ」(0mm)
9月3日:「ハレ」(0mm)
9月4日:「雨」(29.2mm)
9月5日:「雨(ハレ、降)」(6.2mm)
9月6日:「クモリ、ハレ」(0mm)
9月7日:「クモリ、ハレ」(5mm)
9月8日:「終日雨」(5.7mm)
9月9日:「クモリ、雨」(4.1mm)
「コトバンク」によれば、1日の雨量が5ミリ以下は「微雨」で、5~20ミリは「小雨」。また、20~50ミリは「並雨」だ。
9月4日にまとまった雨が降っている。5日も雨は降っているが、24時間で6.2mmだ。5ミリ程度の雨は、傘がなくてもすむほどの雨とされる(★3)。歌の結句「雨ふりそそぐ」からは4日の可能性が高い。
9月4日、雨の中で茂吉は黒い葡萄を見て、「沈黙の」の歌を詠んだのではないか。
同日、茂吉は小谷心太郎とその妻に宛てて、「きょうは朝から雨がしとしとと降って、遣ろうかたない悲哀が身に迫ってまいります」(★4)と書いている。この沈んだ気持ちが、雨に打たれる「黒き葡萄」の姿によって吹き払われたか。
◆茂吉はどこで葡萄を見た?
だが、9月4日の日記を見ると、茂吉が外出したようには思えない(★5)。
茂吉が外に目を向けた記述は、「十右ェ門は庭の手入をなした。雨が降ったり晴れたりして、そのあいだに見物をした」のみだ。「十右ェ門」は茂吉の妹婿・斎藤十右衛門のことで、疎開中の茂吉は十右衛門家の土蔵を借りていた。十右衛門家の庭にブドウが植えられていたのだろうか。
あるいは、日記には書かれていないが、近所や十右衛門の畑あたりを散歩し、そこでブドウを見たのか。
ただ、記事「斎藤茂吉の短歌『沈黙のわれに見よとぞ……』はどのように推敲されたか」で指摘したように、「沈黙の」の歌の「百房の」の部分は最初は「日もすがら」だった。つまり、一日中だ。とすれば、散歩の途中でちらっと見た葡萄を歌ったのではなく、庭の葡萄だったかもしれない。
■おわりに
茂吉が「沈黙の」の歌を手帳に書きつけたのは、9月4日から9月7日午前の間でだいたい間違いないのではないかと思う。
作歌手帳にこの歌が記入されているのは、9月4日付の「紙片」を貼り付けた後となっているからだ。また、この歌の記入後に、9月7日午前に届いた手紙に書かれていた「内藤二郎氏」の住所をメモしているからだ。
さらにしぼれば、9月4日となるのではないか。
まず、それなりの量の雨が降った日は9月4日だけだ。
次に、9月2日の降伏調印からそれほど日が経っていないということも大事だ。「沈黙の」の歌は、敗戦の屈辱と絶望と悲しみと関連している。降伏調印によって、茂吉はあらためてそれを呼び戻されたはずだ。同時に、8月15日の「玉音放送」後の「大土のごとわれは黙さむ」という自らへの誓いもまた思い起こしたはずだ。
さらに、9月4日付の手紙において、茂吉は、「きょうは朝から雨がしとしとと降って、遣ろうかたない悲哀が身に迫ってまいります」と「悲哀」を訴えているが、これも歌の基調と一致する。
とはいえ、この9月4日説は推測の上に推測を重ねたものであることも確かだ。
ま、いつか茂吉研究者がはっきりさせてくれることを期待しよう。
■補足:葡萄の種類は?
茂吉が見た葡萄はどんな種類の葡萄だったのか。
山形は国内でも有数の葡萄産地だそうだ。葡萄が採れるのは9月上旬。茂吉の日記にも、「徒歩、行在所、ぶどうをくれた人あり」(9月6日)や「湯坂の女来りブドウを呉れた」(9月13日)とある(「行在所」は、天皇が行幸のときに滞在する仮宮)。9月上旬に葡萄が熟していたのは確かだ。では、どんな葡萄だったのか。
歌に「黒き葡萄」とあるので、筆者は最初、「巨峰」ではないかと思った。しかし、1945年当時はこれらはまだ日本では開発されていなかった。(現在は山形でも黒系葡萄の「巨峰」や「ピオーネ」などが栽培されている。)
だから、「デラウエア」ではないかと思う。
山形では明治期にヨーロッパやアメリカから「デラウエア」が入ってきて、盛んに栽培された。今では、山形は「デラウエア」の日本一の産地だ。茂吉の生地であり、また疎開先でもある上山市も主な産地の一つとなっている。
「デラウエア」は小粒の葡萄で、赤紫色をしている。黒色ではないが、暗い雨の日には黒く見えるかもしれない。
もう一つの可能性は「ヤマブドウ」だ。野生種だが、食べられる。熟すると黒紫色になる。山形では現在は「ヤマブドウ」のワインも作られている。
小倉真理子は「野生の山葡萄か」(★6)と注釈を入れている。「戦時中は果物の生産が制限され、穀類に転作されることが多かった」ため、畑に葡萄はなかったのでないかと推測している。
■追記
◆2024/12/06
その後、土屋文明編『斎藤茂吉短歌合評(下)』(明治書院、1985)を読んだら、井出敏郎があっさりと、
記載順(=「手帳五十五」への)及び「日記」の天候などより推して九月四、五日頃の作と思われる。(1182頁)
と述べていた……。
■注
★1:ポツダム宣言受諾後の1945年8月28日に米軍が横浜に上陸し、連合国軍本部を設置した。8月30日にはマッカーサーが来日し、本格的な占領が始まる。山形市発行の『山形市史 近現代編』1980によると、降伏によって占領下に置かれることになった全国民は不安を抱き、すでに8月20日以前に「横浜に六万の米軍が上陸し、掠奪行為を行っている」「相模湾に米軍が入って来た」などの風説が流布していたようだ。東京に戻ることを考えている茂吉にとっても進駐は大きな関心事だった。9月1日の手紙で、鎌倉市の高橋愛次に宛てて「敵軍御地へも進駐と存じ、しゃくにさはり居り候」と書き、また降伏文書調印後の9月4日の日記に「敵兵が進駐したりなどして予の心が定まらず」と記している。だが、連合国軍が実際に東京を占領したのは9月8日のことだ。
★2:『山形市史 近現代編』山形市発行、1980、468頁。
★3:9月5日は、山形市では6.2ミリの雨だったが、茂吉は日記に「雨(ハレ、降)」と書いている。蔵王連峰のふもとにある金瓶ではまだ前日の雨がしばらく続いたのかもしれない。茂吉の日記の「雨(ハレ、降)」は、雨だが晴れたり降ったりと捉えることができる。とすると、9月5日に雨に打たれるブドウを見た可能性もある。ただし、この日の茂吉は多忙だった。朝から人が訪ねてきて、就職の仲介を頼んでくる。その人に手紙を書いて渡す。午後にまた手紙を書いているところに山形の読売新聞記者が来て、5首の歌の依頼を受ける。この日茂吉は、午前中の手紙のほかにハガキ3枚と手紙1通を書いている。手紙を片付けた後、茂吉は読売新聞用の歌5首をすぐに作り、手帳に記入している。この多忙さをみると、「沈黙の」の歌を作る余裕があったのは、午後かなり遅くなってからのこととなる。だが、そのときにはもう雨は上がっていたのではないか。
★4:『斎藤茂吉全集』新版、岩波書店、第35巻、590頁。
★5:日記をみると、9月5日もずっと家にいたようだ。9月6日には上山に行き、あちこちを訪れている。9月7日も家にいたようだ。
★6:小倉真理子『斎藤茂吉』コレクション日本歌人選018、笠間書院、2011、94頁。
■参考文献
『斎藤茂吉全集』新版、第28巻、岩波書店、1974
*「斎藤茂吉記念館」にはお世話になりました。