見出し画像

寺山修司の短歌「ころがりしカンカン帽を追うごとく」

寺山修司の「初期歌篇」にはわかりやすくて、明るい歌がある。深い意味はなくても、口ずさむと楽しくなる。「ころがりしカンカン帽を追うごとく」もそのような歌の一つだ。

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ

(『われに五月を』)

■語句

ころがりし――「し」は過去の助動詞「き」の連体形。「ころがった」。

カンカン帽――麦わらを堅く編んで作った夏用の帽子。上部が平らでつばがついている。夏の季語。

追うごとく――「追いかけるように」。

帰らむ――助動詞「む」は意志を表わす。「帰ろう」。雑誌『短歌研究』(1954)、第一作品集『われに五月を』(1957)、第一歌集『空には本』(1958)に掲載されているのは、「帰らむ」だが、『寺山修司全歌集』(1971)では「帰らん」となっている。「ん」のほうが楽しくはずんでいるような感じがするが、歌には「追うごとく」と古めかしい表現もあるので、「帰らむ」のほうがいいかと思い、そちらを採用した。

■解釈

わかりやすい歌だ。

転がったカンカン帽を追いかけるように、ふるさとの道を走って帰ろう。

という意味だ。

「帰ろう」と思っている「我」はどのような人物だろうか。少年だろうか、大人だろうか。

「カンカン帽」を被るのは大人だろう。また、「ふるさと」という語も手がかりとなる。「ふるさと」という語を使うのは、いったん故郷を離れた人物だ。たとえば帰省した大学生、あるいは大都会に就職した若者だろう。

子供の頃に何度も歩いた道を久しぶりにたどって実家へと向かう。浮き浮きして、足取りは思わず速くなる。

「ころがりしカンカン帽を追うごとく」という喩えが秀逸だ。

若者はおそらくカンカン帽を被っているのだろう。だが、それが実際に目の前の道を転がっているわけではない。「転がったカンカン帽を追いかけるように」という喩えを思いついたのは、子供のときに被っていた麦藁帽子が風にあおられて飛び、道を転がっていったことがあったからだ。青年は今その光景を思い出している。

転がっていく帽子は「我」の気持を表わしている。体よりも気持ちが先走っている。はやる気持ちを追いかけるようにして駈けていく。

「カンカン帽」という名前は、叩くとカンカンと音がするほど堅い帽子であるところから来ているようだ。ただ、寺山の歌の「カンカン」は帽子がはずむ音のようでもある。

「カンカン帽」のカ音が、末尾の「駈けて」「帰らむ」の頭韻のカ音と明るく響き合っている。「我」の嬉しさが、音でも表現されている。

■さまざまな解釈

◆『日本文芸鑑賞事典』:1988

坂道を転がっていったカンカン帽を追いかけていくみたいに、私は懐かしい故郷の道を走って帰りましょう。

(371頁、原田千万ちかず執筆)

ここでは「坂道」がイメージされている。帽子が転がっていくからだろう。僕は風で転がっていくと思ったが。

◆梅内美華子:2008

カンカン帽は、かたく編んだ麦わら帽のこと。その語の弾むような音と、帽子が風に飛ばされて転がってゆく動きに、若やかな雰囲気があふれている。田園風景のふるさとを心に思い描き、やがてふるさとの道を駈けてゆく主人公は心も身体も前のめりになってゆくようだ。

(葉名尻竜一『文学における〈隣人〉』212頁より)

僕は、帰省した「我」が今まさに実家に戻ろうとして足を速めているところだと想像した。でも、梅内は、この歌の「我」は、「田園風景のふるさとを心に思い描」いていると見ている。つまり、「我」は異郷にいて、自分が実家に帰るところを想像しているという。ふるさとの家に帰るとしたら、こんな気持ちになるだろうな、と想像し、その空想の中にどんどんのめり込んでいっているということ。

なるほど! 「帰る」ではなく、「帰ろう」だから空想と考えられるということか。この場合、「帰らむ」の「む」は「帰るだろう」と推量に近くなるのかな。

◆サイト「短歌の教科書」:2020

道を駈けていく少年の姿、走ることによって巻き起こる風などスピード感がイメージされる一首です。/カンカン帽が転がっていくのは、風によって帽子が飛ばされ、それを追っていくのでしょう。/「ころがりしカンカン帽を追うごとく」という上の句からは、明るく、若々しい少年の姿や、躍動感が伝わってきます。/そして下の句「ふるさとの道駆けて帰らん」につながりますが、「駈けて帰らん」が上の句の「カンカン帽」を響き合って、「か」「ん」の音の繰り返しで独特のリズムが生まれています。

「短歌の教科書」の筆者は、「少年の姿」を思い描いている。そうか、カ音だけでなく、「カンカン」と「帰らん」のン音も響き合っているのか。

■おわりに

ネットで調べてみると、中学生のときに作った歌だと寺山修司自身が言っているようだ。

私は一度も出たことのない故郷にいて、「帰る」ことを歌っていた。

(ネット「ふらり道草」による。寺山のエッセイ?)

ただ、『寺山修司全歌集』では「高校生時代」の作とされている。

いずれにせよ、「寺山には中学、高校時代、東京への狂おしい憧れがあった」(『名歌名句大事典』148頁)ようだ。だからこの歌は、まだ故郷を離れたことがないのに、故郷を離れてたとえば東京の大学に進学し、夏休みになって帰省してくる自分を思い描いて作ったのだ。

だから「帰らむ」となっているのか。う~む、ややこしい。

■参考文献

◆テキスト

『われに五月を』日本図書センター、2004

『寺山修司全歌集』講談社学術文庫、2011

◆文献

井上靖ほか監修『日本文芸鑑賞事典―近代名作1017選への招待―第17巻(昭和30~33年)』ぎょうせい、1988

久保田淳・長島弘明編『名歌名句大事典』明治書院、2012

葉名尻竜一『コレクション日本歌人選040 寺山修司』笠間書院、2012

葉名尻竜一『文学における〈隣人〉――寺山修司への入口――』KADOKAWA、2018

サイト「短歌の教科書」、2020年3月7日
https://tanka-textbook.com/korogarishi/

サイト「短歌のこと」、2022年11月9日
https://tankanokoto.com/2022/10/korogarirsi.html

サイト「ふらり道草―季節の往来―」、2007年4月1日
http://blog.livedoor.jp/syoukaibu/archives/51497509.html

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?