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三好達治の詩「乳母車」―淡くかなしきもののふるなり

三好達治の「乳母車」は、すごい詩だ。何しろ赤ん坊が自分の母親に向かって「私の乳母車を押せ」と命令するのだから。

古今東西、こんな詩があっただろうか?

「乳母車」は、三好達治が初めて発表した詩5篇のうちの一つだ。発表後、すぐに詩人百田宗治に激賞された。当時、達治は25歳で、東京帝国大学の2年生だった。「乳母車」はその後、第1詩集『測量船』(1930)に収められた。

ここではこの詩を解釈すると同時に、これまでどのように理解されてきたのかを概観する。

■三好達治「乳母車」

母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花あぢさゐいろのもののふるなり
はてしなき並樹なみきのかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽(ゆふひ)にむかつて
轔々りんりんと私の乳母車を押せ
赤いふさある天鵞絨びらうどの帽子を
つめたきひたひにかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道

■語句

ふるなり――「なり」は断定の助動詞。

「並樹のかげ」――「かげ」は「影」だろう。葉が落ちて枝だけになった並樹が夕陽に照らされて「道」に影を投げかけているのだろう。(★1)

そうそうと――三好達治は単に「擬音語」と言っている。(三好達治290頁)

轔々と――大辞泉によれば、「車が走って、きしんだ音をたてたり地面を轟かしたりするさま」。三好達治はのちに、「字面もかどかどしく、誇張にすぎる」(三好達治290頁)と述べている。野田寿子や関良一は、杜甫の「兵車行」の「車轔轔 馬蕭蕭」に由来すると見ている。

赤い総ある天鵞絨びらうどの帽子――村上菊一郎は、「白秋(=北原白秋)の美しい童謡を思い出させるような」(19頁)と述べている。西原大輔は、「赤い総のある」について「豪華な装飾」(51頁)と、「天鵞絨の帽子」について「温かく華やかな高級品」(52頁)と注をつけている。これはイメージとして浮かび上がってきたものであって、実際の達治の子供時代の記憶にあるものではないと思われる。

■解釈

◆三好達治の言葉

「乳母車」について三好達治は次のように述べている。

場景の架空であることはむろん明瞭、言葉の組立てからそれらしきものを仮定しているのにすぎない。(……)「紫陽花いろのもののふるなり」は何を指すのであるか、とよく質問されるが、これにも作者は答えにくい。現実に何を指すのでもなく、そういう色合をただ言葉の上でなすっておく、それで、夢のような乳母車が登場する、幻覚めいた場景に、なにほどか支えが準備されるのである、と位に答える外はないが、こんな説明を加えたのでは、たいへん味気ないのを覚える。(三好達治290-291頁)

作者としてはこう言うよりほかはないだろう。だがこの文章は、この詩がどのようにして生まれてきたのかを教えてくれる。

「淡くかなしきもの」「紫陽花いろのもの」という「色合い」が始めにある。それは、「現実に何を指すのでもなく」とあるように、具体的な形のない茫漠としたものだ。これを「言葉の上でなすつておく」、つまり言葉にしてみる。そのときに浮かび上がってきたのが「乳母車」とうい具体物である。そしてそれを核としてイメージが展開し、言葉が紡ぎ出される。詩が形を取り始める。

◆情景

「母よ――」――「乳母車」はこの母への呼びかけで始まる。呼びかけによって母を呼び出している。

なぜ母を呼び出したのか? それを説明しているのが続く2行だ。

淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり

「淡きかなしきもの」「紫陽花いろのもの」が降るからだ。

これは何だろうか? うっすらとした悲しみや漠とした寂しさのことだろう。そういったものが「ふる」のは、詩人の心象風景の中だ。

そして風景が具体化されていく。「はてしなき並樹のかげ」を、「風」が「そうそうと」吹くのだ。

「時はたそがれ」――時間は夕方。

「泣きぬれる夕陽」――これは、地平線のかなたに沈みかかっている夕陽のことだ。赤みがかった太陽の下部が大地の下に隠れはじめるとき、そこだけ光がゆらぎ、溶けかかっているように見える。それを涙を浮かべる目にたとえている。そのようにたとえてしまうのは、心の中に「淡きかなしきもの」「紫陽花いろのもの」が降っているからだ。

「旅いそぐ鳥の列にも/季節は空を渡るなり」――「旅いそぐ鳥」とは渡り鳥のことだ。「旅いそぐ」からわかるのは、鳥たちが寒くなるのでもっと暖かい遠い国に去って行こうとしているということ。渡り鳥が急いで飛んでいく姿から、季節が移ろうとしていることがわかる。「季節は空を渡る」は「鳥が空を渡る」から発想された詩的表現だ。

季節はいつか? おそらく晩秋だろう。「並樹」はもうすっかり葉を落としている。風が音を立てて、木々の間を吹き通る。「そうそうと」というオノマトペがそれを表している。赤ん坊の額が冷たくなるのは、日が落ちるとすぐに寒くなるからだ。

「紫陽花いろのもの」――ほかの部分が晩秋を思わせるのに、これだけが季節はずれだ。それは、詩人の心の中に季節を問わず存在する寂しさを表しているのではないか。

◆なぜ「私」は赤ん坊?

「私の乳母車」――赤ん坊になった「私」が乗る乳母車のこと。詩人はここで赤ん坊になっている。

心の中に「淡くかなしきもの」「紫陽花いろのもの」が降るのを感じた詩人、つまり、茫漠とした寂しさを感じた詩人は、「母よ――」と母を呼び出す。そして、自身の寄る辺なさが、「乳母車」のイメージを創出する。そして詩人は赤ん坊としてその乳母車に乗るのだ。弱々しい、母に頼らずには生きてゆけない赤ん坊に退行する。

◆母親への命令

この詩でもっとも驚くのは、赤ん坊による母親への命令である。

「母よ 私の乳母車を押せ」「轔々と私の乳母車を押せ」「赤い総ある天鵞絨の帽子を/つめたき額にかむらせよ」だ。

この命令形は力強い。第1連の心細さ、寂しさを一気に吹き払う言葉だ。――ここでは大人の「私」と赤ん坊の「私」が一体化している。「私」は赤ん坊となり、母に保護されるようになったことで、力を取り戻したのだ。

赤ん坊から母親への命令は、強い願望である。「私の乳母車を押して」や「帽子をかむらせて」という表現ではとても足りず、命令形になってしまうほどに強い願望だ。「私」は、母の力強い支えを切に求めている。それによって「私」は前に進んでいけるのだ。

「轔々と」が効果的だ。力強く押し出すよう求めている。

◆第4連と末尾の2行

第1連で「淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり」であったものが、第4連では「淡くかなしきもののふる/紫陽花いろのもののふる道」となっている。そしてそれが、「この道は遠く遠くはてしない道」と言い換えられる。

「この道」とは、第1連の「はてしなき並樹のかげ」(★2)にある「そうそうと風のふく」道だ。そしてそれは人生のことだ。

第1連で、詩人は人生の道を前に、不安を感じている。一人で歩いて行くにはさびしく、不安で、心もとない道だからだ。だから、母を呼び出す。

第2連と第3連で詩人は母に支えられることで、生きる力を取り戻す。

そして、第4連。

母よ 私は知つてゐる/この道は遠く遠くはてしない道

この2行はこの詩で重要なところだ。

詩人は最後にもう一度「母よ」と呼びかける。そして、人生という「道」が「遠く遠くはてしない」ものであることを、自分は「知つてゐる」と母に伝える。

これは第1連の不安におびえる「私」の言葉ではない。詩人は落ち着いて自身の未来を見据えている。ここには、「この道」がどんなにさびしく、悲しいものであろうと、この道を歩んでいくのだ、という詩人の決意が感じられる。詩人は、第1連の不安を克服したのだ。

■諸家の解釈

以上のように解釈してみた。ほかの人たちはどんなふうに読んでいるのだろう。木村幸雄の論文を手引きとして、いろいろな人のとらえ方を調べてみた。さまざまに解釈されてきたことがわかる。

◆「淡くかなしきもの」「紫陽花いろのもの」について

▲村上菊一郎:1959

降りしきる落葉のことであり、或いはまた、忍びよる薄暮の水色の雰囲気のことかも知れない。(18頁)

▲阪本越郎:1967

秋の夕方の薄明るい空気の色合であろう。(8頁)

▲菅谷規矩雄:1967
三好達治の「セクシュアリティ」(164頁)を示すもの。(→「何を表現した詩か」を参照のこと)

▲三好行雄・越智治雄・野村喬:1968

なんらかの具体的な物に還元することは当を得ていない。(178頁)

▲安西均:1969

目に見える何かが降っているわけではない。仮に〈光〉といってもよいが、そんなふうに具体的に意味づけすることもおかしいような「かなしきもの」なのである。(13頁)

それは「母への慕情」であり、「おとなとなった今では、淡く、はかなく、とらえがたい情感なのである」(13頁)。

▲村野四郎:1969
「あわあわとした秋の光」(10頁)

▲吉田熈生ひろお:1979
「<母>に対する<私>の内面についての現状報告」(93頁)。

▲元木直子:2000

紫陽花の花の淡い色合いが、母という存在の遠さであり、不確かさという感覚的なかなしさを表現している。(19頁)

▲西原大輔:2015
「紫陽花いろ」は「母の存在の不確かさを表現」(51頁)。

◆「泣きぬれる夕陽」について

▲村上菊一郎:1959

泣きぬれるという主観的形容がそのまま落日のはかない赤色を連想させる(……)(19頁)

村上は、「泣きぬれる」を「落日のはかない赤色」を主観的に形容したものだと考える。つまり、そう見えるのだ、ということ。「泣きたいように寂しいこうした心象風景」とも言っているので、作者が泣きたいような気分になっている、その反映が「泣きぬれる夕陽」となった、ということ。

▲菅谷規矩雄:1967
「泣きぬれる夕陽」とは、「かつて幼い私が泣きぬれたこと」(163頁)を表す。

▲三好行雄・越智治雄・野村喬:1968

乳母車を押しだすように求めて歌いつつ、詩人はいつしか泣きぬれる。(178頁)

詩的主体たる「私」は、全風景の観照者として存在し、それゆえに「夕陽」もまた「泣きぬれる」とうたわれたのではないか(178頁)

泣きぬれているのは幼い「私」ではない。大人の「私」が泣いている。

▲元木直子:2000

幼少期の「私」が涙を流しながら夕陽を見ている(17頁)

▲西原大輔:2015

「泣きぬれる夕陽」は、悲哀の情を投影した表現である。(53頁)

◆季節について

▲阪本越郎:1967
「秋の夕方」(8頁)

▲西垣しゅう:不明
「たそがれの秋光の感じと見たい」(安西14頁より引用)

▲安西均:1969
秋ではなく、春か、春すぎ。(14頁)

▲村野四郎:1969
「季節は、第三連にあるように秋」(10頁)

▲吉田熈生ひろお:1979
「春夏秋冬のいずれでもない」(93頁)

▲西原大輔:2015
「つめたき頬」についての注釈で、「季節は秋か」と述べているが、渡り鳥については、春か秋かの「特定は困難」としている。(52頁)

◆母への命令について

▲菅谷規矩雄:1967
→「何を表現した詩か」を参照のこと。

▲三好行雄・越智治雄・野村喬:1968
作者が幼時に得られなかった母親の愛情を求めて、命令形が発せられている。

奪回不可能であるとき、「母」への命令はむなしい。(178頁)

母からの愛情を今から得ることはもはや不可能であるから、母に向けて発せられる命令形は「むなしい」ものとなる。

▲吉田熈生ひろお:1979
<私の乳母車を押せ>、帽子を<かむらせよ>という命令は、母への「行動要求」。これは「実現不可能の要求」(93頁)。

そして、「それがもし実現した状態を想像するならば、滑稽を通り越してグロテスクな印象すら与えかねないほどの、現実に対する一種の倒錯性を内包している」(93頁)。

▲元木直子:2000
「「押せ」という要求に三好達治の母への願望が託されている」(18頁)
「かむらせよ」という要求も、「母を恋う思い」(18頁)

▲西原大輔:2015
「押せ」について。「母の愛の力で私を人生に押し出して欲しいという願い。」(51頁)

◆「遠く遠くはてしない道」について

▲百田宗治:1926
「母と子の道」(関良一102頁より引用)

▲村上菊一郎:1959
「慕情のはてしない道、人間の郷愁のはてしない道」(19頁)

▲関良一:1965
「遠い文学の道」(105頁)

▲阪本越郎:1967

永遠の郷愁、母への慕情のはてしなさをいうのであろう。(8頁)

▲菅谷規矩雄:1967
母との絶対的な距離を表す「宿命」(164頁)の道。

▲石原八束:1987

〈この道〉とは何なのだろう? 云わずとも知れた詩業の道である。(……)その道にしっかりと腰をすえ、〈遠く遠くはてしない道〉をはるかに眺めやり、その道をこれから静かに懸命にひたばしろうとうする決意がここには見られる。(103頁)

▲元木直子:2000
未来の道ではなく、「過去へと向かう郷愁の道」。それが「遠く遠くはてしない道」とされているのは、母の存在が遠いから。(19頁)

▲西原大輔:2015
「郷愁及び人生の象徴。文学の道をも暗示する。」(52頁)また、「幼い日の記憶の遙けさであると同時に、未来の人生行路の遠さでもある」(53頁)

◆「母よ 私は知つてゐる/この道は遠く遠くはてしない道」について

▲菅谷規矩雄:1967
母との徹底的な距離を「私」が一つの「宿命」とみなしていることを伝えている。

▲三好行雄・越智治雄・野村喬:1968
→「何を表現した詩か」を参照。

▲中村稔・大岡信:1979

中村 (……)ことに「母よ 私は知つてゐる」というへんがとても引っかかって……。
大岡 そうです、この最終連はついていけないという思いはあるんです。(31頁)

◆何を表現した詩か

▲村上菊一郎:1959

(……)泣きたいように寂しいこうした心象風景の中で、作者はやさしい母親に、赤い総のついたビロードの帽子(白秋の美しい童謡を思い出させるような)をかぶらせてくれてと甘えてせがみながら、慕情のはてしない道、人間の郷愁のはてしない道を辿ってゆく。(19頁)

村上は、作者が赤ん坊になって母親に甘えている。母親への「慕情」をうたった詩である、とする。

▲関良一:1965
関良一は、『測量船』を「知的な実験の詩集」とみている。関は三好達治の次の文章を引く。

言葉がウマク――珍しい幸運のようにウマク連続していって、そうして思いがけない場所で一つの意味を完結する。そういう骰子の目のウマク出た時のような面白さなのである。」(「ある魂の径路」、『風蕭々』所収。関良一105頁より引用。)

関は「乳母車」がそんなふうにしてできた詩であると考える。

ただ、それにとどまらず、三好達治の幼児からの成育事情も詩ににじみ出ており、それが感動を呼ぶのだという。

しかし、三好の場合、「母よ」という呼びかけには、それなりの裏づけがあり、切なさがあり、それが、ゆえ知らず、読者にも伝わってくるのではないか。(103頁)

▲阪本越郎:1967

乳母車を押せと母にせがむ幼児の情景は、詩人の心に浮んでくる、はかなく、とらえるすべもない、追憶の情緒そのものを形象化したものである。(8頁)

▲菅谷規矩雄:1967
菅谷はこの詩に、詩人と母親の絶対的な距離を見て取る。

第1連の冒頭で「母よ」という呼びかけるが、それに続くのは母と共有される思い出ではない。「淡くかなしきもののふるなり」以下の3つの断言は、過去ではなく、「現在」のことである。母と共有されるべき記憶が欠けているからだ。「母はこの断言によってかえって遠ざかる」(163頁)。

菅谷は第2連の解釈においても、母親との距離を読み取る。

母は「私の乳母車を押せ」と命令される。「私の」という所有格を付すことで、「私」自身は乳母車からおのれの姿を消す。「私」は自分の乗っていない乳母車を外から見て、母親に「押せ」と命令している。「母は命令のきびしさにおびえて」、また「私」を生みだしたという「負い目」の重さに身を屈するように乳母車を押す。(163頁)

菅谷は「この拒絶と不在のはげしさに(……)心のおくで声をのみ、一瞬心うばわれる」という。「私」による母の「拒絶」、そして母の押す乳母車における「私の不在」だ。

「泣きぬれる夕陽」とは何か。それは「かつて幼い私が泣きぬれたこと」を表す。そして「その理由を、母はついに理解しない。」(161頁)

末尾の2行、「母よ 私は知つてゐる/この道は遠く遠くはてしない道」は、このような母との徹底的な距離を一つの「宿命」とみなしていることを伝えるものだ。

これがおそらく幼少期の三好達治がつかみとり、生涯にわたってもちつづけた人間の関係のプロトタイプである。(164頁)

このような「拒絶と不在」によって、三好達治のセクシュアリティが抑圧されることとなった。セクシュアリティは、「淡くかなしきもの」「紫陽花いろのもの」という「わずかな色あい」を帯びたものにとどまった。「甃のうへ」でもそうであるが、青春時代の「三好達治が表現しえたセクシュアリティあるいはエロティシズムは、ほぼここでとどまっている。」(165頁)

▲三好行雄・越智治雄・野村喬:1968
この詩に「母子分離」を見た菅谷規矩雄の論を土台にしている。

結びの2行の前までは、「私」の幼年期の原風景を叙述している。しかし、結びの2行には「詩人の現在における烈しき飢渇」が現れている。

乳母車を押しだすように求めて歌いつつ、詩人はいつしか泣きぬれる。

泣きぬれているのは幼い私ではない。全風景を見渡している「詩的主体たる『私』」、つまり大人の「私」である。

「つめたき額」が示しているのは、「今なお、詩人はおのれの額のつめたさを感じて、強い孤独感を味わっている」(178頁)ということ。だから、「かむらせよ」と歌っている。

命令を発しているのは、作者が幼時に母親から得られなかった愛情を求めているからだ。

「旅いそぐ鳥の列にも/季節は空を渡るなり」には、もはや「充填不能の、回復しえぬ時間の推移」(178頁)が示されている。

奪回不可能であるとき、「母」への命令はむなしい。

母への命令が「むなしい」のは、今からではもはや愛情を奪回できないからだ。

末尾の2行は、大人の「私」の現在の「認識」を表現するもの。「知つてゐる」は、自分の前には「遠く遠くはてしない道」が横たわっているだけだという現在の認識を示している。

その「はてしな」さの無限性に、詩人の若い生命が、幼時との断絶と未来への不安とにおののき、つめたい孤独の思いにひたっている魂の悲傷を聞くのである。(179頁)

「乳母車」は、詩人の現在の「魂の悲傷」が表現された詩である。そして、この詩の背景にあるのは、詩人の孤独な幼年時代である。

生家を離れて他家や祖父母のもとで送った日々のやるせなさが、「母」への痛恨のよびかけとなっている、とするのは余りに牽強付会の観察だろうか。(179頁)

▲中村稔:1968
「乳母車」に限らず、詩集『測量船』には「母」が多く登場する。これらの「母」には、「母親への抑えがたい思慕」が溢れている。(158頁)

▲安西均:1969
「淡くかなしきもののふる」「紫陽花いろのもののふる」によって漠然と表現されているのは、「母への慕情」。

この詩でよびかけている「母」は、作者ならずとも誰しもが、おとなになっても持ちつづけている「母なるもの」であり、そういう母への慕情を、作者自身が幼児になることで表した詩なのだ。(13頁)

その慕情は、おとなとなった今では、淡く、はかなく、とらえがたい情感なのである。(13頁)

▲村野四郎:1969

この詩は、季節的な哀愁感と母への追慕の情感とのいりまじった情緒をモチーフにした回顧的抒情詩で、さらに最後の行によって、人生的な哀感をも点じている。

やわらかいリズムと、哀憐のイメージによって幼時をしのび人生を思う詩人の情感がよく表現されている。(10-11頁)

▲小川和佑:1976

この〈母よ〉という呼びかけに籠められる達治の心は流離の中に憧れる家居への心情であろう。(47頁)

達治にとって母なるものは母によって象徴化される家庭であったろう。(48頁)

▲石原八束:1979

最後の"母よ私は知つてゐる、この道は遠く遠くはてしない道"というのは何やら詩人三好の生涯を通じての母への慕情につながる永遠の郷愁と考えていい言葉である。(144頁)

▲吉田熈生ひろお:1979
伝記的なものをいっさい考慮せず、作品の構造と言葉の分析だけで解釈しようとする構造主義的解釈。難解な論文だが、思い切ってかみ砕けば次のようになるだろうか。

この詩では、「母」の実質については明示されていない。「母」は一般化して「自然の時間」の異名とみなすことができる。乳母車は過去に属し、「遠くはてしない道」は未来にある。最後に「私」は「乳母車幻想」から醒めて「遠く果てしない道」を見る。この詩は、自然の時間というものは呼びかえすことができないのだという「かなしみ」を表現している。

▲元木直子:2000
幼少期に夕暮れという時間の中で感じた寂しさや養子となった体験がこの詩の根底にある。それが「母の存在の不確かさや故郷の遠さに対する郷愁」として表現されている。この詩は、「母に対して満たされなかった愛情を過去の詩世界の中で求めようとするもの」。(22頁)

▲西原大輔:2015

幼少期に十分得ることができなかった母の愛を求める哀歌(53頁)

この詩は、一種抽象的な母への思いを、哀感や郷愁を込めつつ感傷的に詠った作品(53頁)

■おわりに

母親への思慕をうたったものとする解釈もあれば、母親との絶対的な距離を表現したものとする、まったく逆の解釈もある。

両解釈の背景にあるのは、三好達治が、6歳にして養子に出されたり、祖父母に預けられたりと、母親から長らく引き離されて育ったという伝記的事実だろう。同じ伝記的事実をどう受け取るかによって、この詩の解釈が異なってくるのだ。

諸家の解釈を見れば、母親の拒絶よりは、母親への思慕をうたったとする解釈の方が大勢を占めているようだ。

だが、単なる母親への思慕にしては、

母よ 私の乳母車を押せ/泣きぬれる夕陽(ゆふひ)にむかつて/轔々りんりんと私の乳母車を押せ

という命令表現は強すぎないだろうか。

この命令こそが、この詩を単なる抒情に流してしまわまいところのものだ。詩人は母を通じて、自分で自分を励ましているのだ。

また、第4連の

母よ 私は知つてゐる/この道は遠く遠くはてしない道

ここには母に甘える「私」ではなく、しっかりと未来を見つめる大人の「私」がいる。詩人は最後に心の落ち着きを取り戻したのだ。

第1連の不安、第2連と第3連における母の呼び出し、第4連の心の平静さの回復――この詩にはストーリーがある(★3)。単なる<母恋し>の詩ではない。

誰しも心が弱るときがある。そういったときに読みたくなる詩だ。

■注

★1:詩の季節を春、または春すぎと考える安西均は、葉が繁った並木の影と見ている。(14頁)

★2:第1連では「はてしなき並樹」と「はてしなき」が使われているのに、第4連では「はてしない道」と「はてしない」が使われている。これは韻律の関係と思われる。「はてしなき並樹」は「はてしなき」の「き」と「なみき」の「き」が韻を踏んでいる。また「はてしない道」では「はてしない」と「みち」がともにi音で終わる。

★3:元木直子は、第1連と第4連は現在であり、第2連と第3連は過去と考えている(15頁)。第1連と第4連には現在の「私」が、第2連と第3連には幼児期の「私」がいるとする。興味深いとらえ方だが、この詩でそんなにくっきりと現在と過去が分けられるとは思わない。現在と過去はあいまいなまま重なり合っていると思う。

■参考文献

安西均「三好達治」、伊藤信吉『現代詩鑑賞講座 第10巻 現代の抒情』角川書店、1969、12-14頁

石原八束「三好詩を追うて」、『現代詩読本7 三好達治』思潮社、1979、140-154頁

石原八束 『駱駝の瘤にまたがって――三好達治伝』新潮社、1987、102-104頁

大岡信1979 → 討議 中村稔・大岡信・谷川俊太郎「余情と伝統 その虚飾の世界」、『現代詩読本7 三好達治』思潮社、1979、11-33頁

小川和佑『三好達治研究』教育出版センター、1976、21-23頁

木村 幸雄「三好達治――乳母車」、『国文学 解釈と教材の研究』第37巻第3号, 1992年3月号、53-55頁

阪本越郎「乳母車」注釈、伊藤信吉、伊藤整、井上靖、山本健吉編『日本の詩歌22 三好達治』中央公論社、1967、7-9頁

菅谷規矩雄「抒情と擬ロマネスク」、『無言の現在』イザラ書房、1970、155-172頁(初出は『南北』1967年12月号、37頁から45頁?)

関良一「三好達治『乳母車』」、『国文学 解釈と教材の研究』第10巻第11号、1965年9月号、102-105頁

中村稔「評伝三好達治――詩人の出発」、『現代詩読本7 三好達治』155-164頁(初出『日本の詩人15 三好達治詩集』河出書房新社、1968)

中村稔1979 → 大岡信

西原大輔『日本名詩選2』笠間書院、2015、51-53頁

三好達治「甃のうへ」、『三好達治全集6』筑摩書房、1965、283-299頁(初出『国文学 解釈と鑑賞』第26巻第8号、1961年6月号)

三好行雄・越智治雄・野村喬「測量船(1)」、『国文学 解釈と教材の研究』第13巻第5号、1968年4月号、176-179頁

元木直子「三好達治『乳母車』論――夕暮れと郷愁――」、『同志社国文学』51号、2000、13-23頁

村上菊一郎編『近代文学鑑賞講座 第二十巻 三好達治・草野心平』角川書店、1959、17-19頁

村野四郎編『日本詩人選15 三好達治詩集』小沢書店、1997(原本初版は1969年、旺文社刊)

吉田熈生ひろお「三好達治『乳母車』」、『国文学 解釈と教材の研究』第24巻11号、1979年9月号、92-96頁

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