ツェランの詩「死のフーガ」―夜明けの黒いミルク
パウル・ツェラン(Paul Celan、1920-1970)はルーマニア生まれのドイツ系ユダヤ人だ。
彼が書いた詩「死のフーガ(Todesfuge)」はおそらく第2次大戦後のドイツでもっとも有名な詩だろう。
恐ろしい詩だ。一度読むと、「夜明けの黒いミルク」というフレーズが頭にこびりついて離れなくなる。
ここではこの詩を訳し、解釈してみる。
■ヨジロー訳
■語句の説明
フーガ――多声音楽の様式の一つ。ある声部の主題で始まり、これに第2声部が模倣的に応答する。先行主題は追いつかれないように逃げて行く形で反復される楽曲。遁走曲とも呼ばれる。
マルガレーテ――ドイツ人女性の名前。
ズラミート――ユダヤ人女性の名前。旧約聖書の「雅歌」第7章に登場する(★1)。新共同訳聖書では「シュラムのおとめ」と訳されている。
■解釈
◆何が描かれているのか
この詩が描いているのは、第2次大戦中のナチスの強制収容所の情景だ。ここには加害者のドイツ人と被害者のユダヤ人がいる。強制収容所の司令官であると思われる「ひとりの男」が、夜部下に命じてユダヤ人たちを連れ出す。猟犬に追い立てられたユダヤ人たちは、自分たちがこれから銃殺されて埋められることになる墓を掘らされる。他方で別のユダヤ人たちの一団は、墓掘りが円滑に進むようにとダンス音楽を演奏することを強制される。実に凄惨な光景だ。
全7連から成る。以下、各連ごとに詳しく見ていこう。
◆第1連
「黒いミルク」という言葉は、読者に大きな衝撃を与える。それは、「ミルク」という絶対的な白を連想させる名詞に、「黒い」という本来は冠することのできない形容詞が付加されているからだ。
通常の日常生活においては、朝のミルクはさわやかな一日の開始を意味する。白いミルクを飲むことによって私たちは健康な一日を生きるための滋養分を吸収する。ミルクは本来生をもたらすものだ。ところがこのようなミルクに、「黒い」という形容詞が付されることによって、それは一気にネガティブなものに転換する。強制収容所のユダヤ人たちが飲む「黒いミルク」は、生へと向かうものではなく、死へと方向づけられている。
「夜明けの黒いミルク」を「晩に飲む」というのも、本来は不可能な言葉の組み合わせだ。2行目では、「昼と朝に飲む」とも、また「夜に飲む」とも言われる。つまり、彼らは一日中「黒いミルク」を飲んでいる。それは実際の飲み物ではなく、精神を徐々に蝕んでいく何かだ。
収容所のユダヤ人たちは、朝も昼も晩も夜も、つまりどんな一瞬も「死」を少しずつ飲んでいくような時間を過ごしているのだ。「黒いミルク」とは、いわば「死のミルク」だ。
テオ・ブックは次のように述べている。
だが、このようなメタファー以上にこの詩の特徴となっているのは、その独特のリズムである(★2)。
原詩では「wir trinken sie abends(私たちはそれを晩に飲む)」や「wir trinken und trinken(私たちは飲みそして飲む)」で、波のような上がり下がりの音のリズムがある。強制収容所での死に浸された日常が単調に果てしなく続いている印象を与える。逃れられない場所での永遠に続く苦しみの中で、「私たち」が自律性を失って機械的に動いている感じが表現されている。句読点のない文の連続(★3)と詩句の頻繁な反復がその恐ろしい単調さを強める。このリズムは読者をもとらえ、自分もまた強制収容所の中に閉じこめられているかのような印象を呼び起こす。
「空中の墓」については、ツェラン自身が、「それはこの詩においては断じてどこかからの借用でもなければメタファーでもありません」(★4)と述べている。「空中の墓」は、単なる詩的空想ではなく、残酷な現実を生々しく指し示す表現だ。それは、強制収容所で焼かれた死者たちの煙が昇っていく場所を指している。
「そこなら狭くない」という表現は、ユダヤ人たちが狭隘なバラックに詰め込まれていることを示唆している。彼らにとって逃げ場は空にしかない。バラックの狭さから解放されるために「空中の墓」さえ救済の場として思い描かざるを得ない状況に生きている。「そこなら狭くない」は、悲惨な状況での痛切なイロニーだ。
ユダヤ人たちが「黒いミルク」を飲まされるような生活をバラックで送っている一方で、収容所の司令官は、専用の住居でペットの蛇(複数)と戯れている。「蛇」は、ここでは彼の内部の悪魔性、おぞましい残忍さを象徴している。
「彼は蛇と戯れる」と「彼は手紙を書く」が流れるように続くことで、残虐さと普通の市民性が男の中で違和感なく同居していることが示される。
夜になると、男は故国ドイツにいる恋人マルガレーテに宛てて手紙を書く。そしてその手紙で使われる甘い愛のささやきの断片が、たとえば「君の金色の髪」なのだろう。恋人に手紙を書く司令官は単なる一人の恋する男にすぎない。
恋人への思いを反芻しながら、彼はロマンチックな気分のまま外に出て、きらめく星を眺める。
恋人に手紙を書き、星を眺めるセンチメンタルな司令官はたちまち残酷な行為をする人間に変貌する。
司令官は猟犬たちを呼び寄せるのと同じ仕方でユダヤ人たちを呼び寄せる。猟犬とユダヤ人が同じように口笛で動かされる。
原詩では猟犬たちはRüden(リューデン)で、ユダヤ人たちはJuden(ユーデン)だ。韻を踏んでおり、両者の位置づけが同じであることをいっそう明確にされている。
また、猟犬とユダヤ人に同じ「彼の」が付されている。ユダヤ人たちは犬と同じレベルにある彼の所有物であり、彼が生殺与奪の権を握っているのだ。
司令官はユダヤ人たちの一部に墓掘りを、他の一部にダンス音楽の演奏を命じる。
主として犠牲者たちの朗詠で成り立っている詩に、加害者の暴力的な命令形「さあダンスの伴奏を始めろ」が混じり、耳障りな不協和音となる。そして「死の舞踏」が演じられるのだ。
◆第2連
第2連は、第1連を短縮し、また一部変化させて繰り返している。
第1連の第1行では「黒いミルク」が「それ」で受けられていた。ところが、第2連以降は、「おまえ」で受けられる。最初は自分の外に対象化して見ていた「黒いミルク」が、飲むことを繰り返すうちに、自分自身と密接なつながりのあるものになっていったのだ。収容所で暮らし、日々死者を目撃する中で次第に死が身近なものになってきたのだ。
「夜明けの黒いミルク」を飲む時間が出てくる順序は、第1連では「晩に」「昼と朝に」「夜に」であった。第2連では「夜に」「朝と昼に」「晩に」、第4連では「夜に」「昼と朝に」「晩に」、第6連では「夜に」「昼に」「晩と朝に」となっている。ここには規則性が見られない。収容所で生活する者たちにとって、もはや時間が何の意味も持たなくなっている。彼らは刻一刻と死に向かって、単調に、しかし確実に歩んでいる。
第2連の最後の行で、「君の金色の髪マルガレーテ」と対照的な「君の灰色の髪ズラミート」という呼びかけが新たに登場する。
ドイツ人がマルガレーテ(Margarete)という名前を聞いてまず思い出すのは、ドイツ文学の巨匠ゲーテの『ファウスト』のグレートヒェン(Gretchen)であろう。Gretchenは、Margareteの縮小形(Margarete > Grete > Gretchen)であり、愛称である。そして『ファウスト』においては、グレートヒェンは主人公ファウストを救済する「永遠に女性的なるもの」を具現している。
一方、ズラミート(Sulamith)は、旧約聖書の「雅歌」に登場する名前である。「雅歌」はイスラエルの王ソロモンに捧げられた歌で、若者と乙女ズラミートの恋愛を描く。そこではズラミートは、「誰にもまして美しい乙女」と称えられている。
つまり、マルガレーテがドイツ人にとっての理想の恋人であるのと同じく、ズラミートもまたユダヤ人にとって憧憬の対象となる女性の典型なのだ。ドイツ人が恋人を持っているように、ユダヤ人たちにもそれぞれの恋人がいる。ここでは、ユダヤ人たち一人一人の恋人をズラミートという名前で代表させている。
ただ、「雅歌」のズラミートが「紫の髪」(★5)をしているのに対して、ツェランのこの詩におけるズラミートは「灰色の髪」をしている。「灰色の(aschen)」は死体を焼却した「灰(Asche)」を連想させる。また、彼女に対する呼びかけのすぐ後に「私たちは空中に墓を掘るそこなら狭くない」という死をイメージさせる文が続く。おそらく、「雅歌」における美しく生気に満ちたズラミートとは異なり、この詩のズラミートはすでに死んでいる。いや殺されてしまっているのだ。
◆第3連
第3連では処刑の状況がリアルに描かれる。青い目をした司令官は銃を振り回し、ユダヤ人たちを二手に分ける。銃殺される予定の者たちには、自分たちの墓をスコップで掘ることを強制し、他のユダヤ人たちには、歌とダンス音楽の伴奏を命じる。
原語では、"Er ruft stecht tiefer ins Erdreich"であり、「弱強強強弱強弱」というアクセントとなっている。「強」の部分が三つ連続するスタッカートのような強い調子となっている。それまでの単調さを破るリズムが突然現れる。司令官の命令の激越さに読者もビクッとする。
ここでは、処刑作業全体がいわば一種の舞踏という芸術的パフォーマンスの様相を呈している。司令官が振り回す銃は指揮棒となっている。
このようなダンス音楽と処刑との結合は、ナチスの狂気を際立たせるために詩人が用いた空想としか思えない。だが、実際には事実を下敷きにしている。
◆第4連
第1連の主題を繰り返している。第3連の司令官の甲高い叫びを受けて、ユダヤ人たちの低い声が再び流れる。
そもそもこの詩には加害者の声と被害者の二つの声がある。「男」は命令し叫んでいる。そしてその声は実際にこの処刑の場で響いている。しかしユダヤ人たちのほうは無言だ。彼らは黙々と墓を掘り、黙々とバイオリンを弾いている。ただ、彼らは心の中でつぶやいているのだ。それは叫び散らす「男」にはまったく聞こえない。そしてその声にならないつぶやきが唱和する。「夜明けの黒いミルク私たちはおまえを夜に飲む」と。苦悩のつぶやきではあるが、声高な反抗ではないし、またあきらめでもない。それは真実を語る寡黙な合唱である。そして寡黙であるにもかかわらず、彼らの声が低く響きわたっているのを読者は感じる。
第2連では、「君の灰色の髪ズラミート」という呼びかけの後に、「私たちは空中に墓を掘るそこなら狭くない」が続いていた。ここからは、死んでしまったズラミートに対するユダヤ人たちの嘆きが感じられた。
それに対して、この連でのズラミートへの呼びかけの後に来るのは、「彼は蛇と戯れる」である。このように語句が結びつけられると、読者はどうしてもズラミートの無惨な死を想像する。ここでは、殺した側の人間の残虐性に焦点が絞られている。
◆第5連
第5連は、再び司令官の叫びとなる。ただ第3連とは異なり、ここでは司令官は墓掘りを命じてはおらず、バイオリンの演奏だけを要求している。すでに墓掘りは終わり、処刑の瞬間が近づいている。「死」という言葉が初めて登場し、「おまえたちは煙となって空に昇っていく」、「雲の中がおまえたちの墓となる」などの表現が連続するのもそのことを示している。
司令官は「もっと甘美に死を演奏しろ」と叫び、続く行では「もっと陰鬱にバイオリンを弾け」と叫ぶ。通常の語の組み合わせでは、「死」は「陰鬱さ」と、「バイオリン」は「甘美さ」と結びつく。ツェランは語の結合を組み替えることで、死を楽しんでさえいる司令官の猟奇性を浮き彫りにする。
「死はドイツ生まれの巨匠だ」という新たな主題も提示される。この言葉は、「もっと甘美に死を演奏しろ」という命令文に続いており、司令官の発言であると考えて間違いはないだろう。
すでに述べたように、彼は処刑を一種の舞踏芸術に見立てている。一切のパフォーマンスを指揮する「巨匠(Meister)」が司令官なのだ。大量殺戮を芸術の域にまで高めた司令官が、「死はドイツ生まれの巨匠だ」と誇らしげに叫ぶ。音楽の巨匠を輩出したドイツは「死の巨匠」も生み出したのだ(★6)。
第5連は、次のように言い放つ司令官の言葉で終わる。
第1連第4行と第2連第6行における「私たちは空中に墓を掘るそこなら狭くない」は、ユダヤ人自身が自らの苦悩を表現するために語った言葉だった。しかしここで「そこなら狭くない」と言っているのは司令官だ。「私たち」の語った言葉を司令官が引き取り、残酷きわまりない言葉として「私たち」にはね返す。
◆第6連
この連で処刑が実行される。
ここでは司令官と「死」が同一視されている。司令官が青い目をしていると同時に、死も青い目をしている。司令官が銃でユダヤ人を撃つと同時に、死がユダヤ人を襲うのだ。
第3連で「彼の目は青い」と語られたときの「目」は複数形(Augen)だった。ここでの「目」は単数形(Auge)である。これは司令官が狙いを定めるために片目をつぶっていることを示している。殺される側に見えるのは、銃口とその向こうの青い目である。読者もまた自分がその場に立たされて、銃口を向けられているように感じる。
上に引用した二行においてこの詩で唯一の脚韻が使われている。「blau(青い)」と「genau(正確に=打ち損じることはない)」だ。両者が韻を踏むことで、「正確に(genau)」のもつ残酷さが青い目と等置される。「au」という二重母音はこもったような暗く深い音である。この音によって、読者は自分の胸に銃口が向けられ、決してはずれることのない鉛の玉が飛んでくるのを恐怖とともに実感する。
だが、犠牲者はただ無反応に、システマティックに「処理」されていくだけなのか。第5連で初めて登場した「死はドイツ生まれの巨匠だ」という表現がここで三度も繰り返されている(第2行、第4行、第8行)。第5連においてこの言葉を語ったのは司令官であった。彼はそれによってユダヤ人たちを嘲弄したのである。ところがこの連で「死はドイツ生まれの巨匠だ」と歌うのはユダヤ人たちである。まさに処刑の瞬間においてこの言葉が犠牲者の口から坦々と反復されることによって、司令官の嘲弄であったはずの言葉が、逆にドイツに対する最大の告発に転化する。
◆第7連
詩は恋人へのふたつの呼びかけで終わる。一方はドイツ人によるマルガレーテへの呼びかけであり、他方はユダヤ人たちによるズラミートへの呼びかけだ。
形式的な面から見れば、ふたつの呼びかけは対等に並んでいる。しかし、この二つの呼びかけの間にはとてつもなく大きい懸隔がある。
加害者の男は「青い」目をしており、その恋人であるマルガレーテの髪は「金色」である。青い目と金色の髪はナチスが称揚したアーリア系の人種を想起させる。一方被害者である「私たち」は「黒い」ミルク(白)を飲み、その恋人ズラミートの髪は「灰色」である。ドイツ人とマルガレーテは生気にあふれ、ユダヤ人たちとズラミートはそれを奪われている。二つの呼びかけの並列は、生と死の並列だ。
この詩の他のすべてがきちんとした文になっているのに対して、「君の金色の髪マルガレーテ」と「君の灰色の髪ズラミート」だけが呼びかけで終わっている。そもそも呼びかけの先には、呼びかける者と呼びかけられる者の愛と人生がある。「君の金色の髪マルガレーテ」の後の人生は、それがどのような非道を蔵していようが、依然として存続し続ける。しかし、「君の灰色の髪ズラミート」という呼びかけは、呼びかけだけで突然中断する。その後に続くものは何もない。
■おわりに
この詩では「私たちは」という一人称複数が使われており、まさに強制収容所にいるユダヤ人自身の声で語られている。それゆえ、この詩が強制収容所の被収容者によって書かれたような印象を与えるが、ツェラン自身は強制収容所には入っていない。強制収容所で殺されたのは、彼の両親である。
ツェランがこの詩を書いたのは、彼自身が強制収容所という場に身を置き、両親の苦悩を追体験し、恐怖を隅々まで感じ尽くすためだったのではないか。
強制収容所を詩のテーマにした詩人はツェラン以外にもいる。しかし、詩としてもっとも迫力があり、私たちに強く訴えかけてくるのは、ツェランの詩だ。一度読んだら、その言葉の響きは私たち胸の中でいつまでも反響し続ける。それが事実を伝える歴史ドキュメントや強制収容所の体験者の証言とはまた異なる、文学の持つアクチュアリティだ。
なお、この詩は、第2次大戦後のドイツにおいて多くのドイツ人研究者によって研究されてきたばかりでなく、数多くの教科書に採用され、学校教育の場で扱われてきた。ユダヤ人商店やシナゴーグが破壊され、多数のユダヤ人殺害されたいわゆる「水晶の夜」 の50周年にあたる1988年11月9日には、日本の国会にあたるドイツ連邦議会でこの詩が朗読された。
■注
★1:『聖書』、「雅歌」第7章。
★2:『聖書』、「雅歌」第7章第6節。
★3:1961年5月19日付けのヴァルター・イェンス宛のツェランの手紙。Buck, S. 45より引用。
★4:この詩はツェランの詩の中で唯一句読点のない詩。
★5:ただ、この詩は特定の一貫した韻律に従って書かれていない。
★6:ツェランが自分の詩で「ドイツ」という国名を挙げているのはこの詩だけ。
■参考文献
Paul Celan, Gesammelte Werke in sieben Bänden, hrsg. von Beda Allemann und Stefan Reichert unter Mitwirkung von Rolf Bücher, Frankfurt a. M. 2000
『パウル・ツェラン全詩集』全3巻、中村朝子訳、青土社、1992
Buck, Theo (Kommentator): Paul Celan, Todesfuge, Aachen 1999
Felstiner, John: Paul Celan. Eine Biographie, Deutsch von Holger Fliessbach, München 2000
イスラエル・ハルフェン『パウル・ツェラーン──若き日の伝記』相原勝・北彰訳、未来社1996
森治『ツェラーン』清水書院1996
『聖書(新共同訳)』日本聖書協会、1988
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