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命がけで海外に渡った人たち④ 南極探検に人生をかけた白瀬中尉

もう人類が宇宙に行く時代です。技術の進歩もあって極寒の南極に行き、さまざまな観測をすることは、容易になっています。

そもそも南極になぜ行くのか。

文部科学省のホームページにはこうあります。


南極地域は、人間による環境汚染(かんきょうおせん)が最も少ない地域です。 その南極の氷や空気、海を調べることで、地球温暖化(おんだんか)などの環境問題の基礎(きそ)となる情報(じょうほう)を集めることができます。

しかし、明治時代はまったく様相が違っていました。

まさに極寒、未開の地に向かうことでした。

その南極を目指し、日本人として初めて到達したのが白瀬矗(なお)です。
南極観測船しらせとして、今も名前が残っています

南極まで1年2カ月(途中陸上での待機含)
往復で1年7カ月


日本からシドニーまで約9時間半、シドニーから南極を上空から見るツアーで片道4時間の計12時間半


秋田県にある浄蓮寺の長男として生まれました。幼少期から活発で、危険な状況でも果敢に行動する腕白少年でした。

11歳の時、寺子屋の先生から北極の話を聞いて探検家を志し、探検家としての心構えを学びながら育ちました。

その後、「僧のままでは冒険ができない」と僧職を離れて軍人となり、千島探検に参加しました。しかし、探検計画の不備から越冬生活は過酷で、多くの仲間が病死してしまいます。

白瀬は後に北極探検を断念し、南極探検に志願し、政府に経費の支援を請願したものの叶わず、自らの費用と借金で挑むこととなりました。

ここが白瀬のすごいところです。

南極探検の準備を整えるために南極探検後援会を立ち上げ、船を用意し、出航しました。

明治43年11月21日、もともとは「第2報效丸(だいにほうこうまる)」でしたが、東郷平八郎元帥によって「開南丸(かいなんまる)」と命名されました。18馬力の補助エンジンを装備して、品川沖で試運転が行われ、11月29日、ついに「開南丸」が芝浦を出航しました。

しかし、途中で氷に阻まれてシドニーに戻ることになり、準備を整えて再度南極に向かったのですが、最終的に目標地点に到達できませんでした。

このため、いったんオーストラリアに戻って、南極の夏を待ち、再び出発しました。

そして明治45年1月28日、白瀬中尉をはじめとする突進隊は南緯80度05分、西経156度37分の地点に達し、見渡す限りの一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。日本を離れて1年2カ月かかったことになります。

南極での経験を持ち帰り、日本を含む各地で講演を行い、借金を返済するために奔走します。
彼が背負った借金は、当時の金額で4万円になるそうです。

そのくらいなら、アルバイトで稼げるって。これは当時のお金です。個人としては大変な借金です。

白瀬中尉の伝記「まぼろしの大陸へ」(岩崎書店)を書いた池田まき子さんは「今のお金で言えば約二億円にのぼる大金」だったと書いています。

数々の困難を乗り越えた白瀬でしたが、巨大な借金を完済したのは老齢に差し掛かっていました。その後、愛知県で85歳で息を引き取りました。

彼の人生は、自らの探検への情熱と意志の強さ、そして絶え間ない挑戦と苦難に満ちたものでした。しかし、自分の人生に満足していたのではないでしょうか?

諦めないことの大切さを教えてくれます。


その姿勢は彼の辞世の歌にも表れています。

「我れ無くも 必らず捜せ 南極の 地中の宝 世にいだすまで」

私が死んでも、南極に行って宝を探してくれということです。冒険家の精神が脈打っています。

参考


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