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満州事変前後の朝日新聞内部は?

よく、満洲事件後、日本の新聞は戦争賛美に舵を切り、部数競争にしのぎを削ったと書かれる。

本書は、その過程を簡潔にまとめており、朝日新聞の報道や内部の動きがテーマだ。

以下は要約。

満州事変以降、朝日新聞はその報道姿勢を大きく転換した。1931年9月18日に発生した満州事変では、中国側が南満州鉄道の線路を爆破したとの軍の主張をそのまま報じ、「暴戻なる支那兵が満鉄駅を爆破し、我守備兵を襲撃」といった電通報を引用した記事を掲載した。

また、社説では「支那側の対日態度を考慮すれば、日本の国策発動に向けた協力が必要である」と述べ、対中強硬論を明確に打ち出した。これにより、朝日新聞の報道は国民の戦争支持を後押しする役割を果たした。

当時、編集局長を務めた緒方竹虎は、満州事変直後に陸軍軍務局長の小磯國昭を訪問し、現地の状況を把握しようと努めた。

しかし、小磯は「現地軍任せ」と答え、参謀次長からは「朝日は反軍の張本人」と批判される始末であった。また、朝日新聞内でも意見が割れ、ある編集者は「軍部や政府からの圧力を受けている以上、報道には限界がある」と語ったという。

一方で別の記者は、「読者は戦争を期待している。経営的にもその期待に応えざるを得なかった」と振り返っている。

さらに、戦時中は内閣情報局や大本営の情報統制が強化され、大本営発表をそのまま報じることが義務付けられた。

その結果、戦況が厳しい中でも「我が軍の大勝利」といった虚偽の内容が記事として掲載され、国民の誤解を助長した。当時を知る記者は、「報道現場では本当の戦況を知っていた。しかし、それを伝えることはできなかった。歯がゆさと恐怖が常に付きまとっていた」と証言している。

戦後、朝日新聞は戦時中の報道姿勢を深く反省した。戦争推進に加担した責任を痛感した編集部では、「事実を十分に検証せず、軍や政府の主張を鵜呑みにした報道がどれほどの影響を与えたかを考え続けなければならない」とする声が多く上がった。

一部の記者は、「当時の私たちがもっと勇気を持って抵抗していれば、少しでも違う結果を生むことができたかもしれない」と悔やんでいる。

こうした反省から、朝日新聞は戦後、報道の自由を守ること、権力に対する批判的視点を持つことの重要性を再認識した。情報の正確性を確保し、戦争の悲惨さを伝えることがメディアの使命であると考え、その教訓を未来に生かすべく努力を続けている。

まあ、今この経緯を認識して新聞を作っているかはわかりませんが。


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五味洋治 Yoji Gomi
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