魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(30)
30.
ジェルトリュードのヴァーチャルな風景は音色との共感覚による非現実的なまでの色彩に充ち溢れているが、 そこには聖書の言う「野の百合」はないのだと牧師は断言する。「狭き門」のアリサもまた野の百合を見出せない嘆きを日記に記したが、 ジェルトリュードはそれを思い描くことが出来るという。牧師は、それがジェルトリュードが盲目であるが故であり、それゆえジェルトリュードの 空想裡には存在する、というように、いわば話をすり替えてしまう。ここでジェルトリュードが「野の百合」を見るための条件として 考えているのは、器質的な盲目性とは基本的に何の関係もないことだ。しかもジェルトルードがそのように考えるように仕向けてきたのは 当の牧師であるというのに、この執拗な否定は何なのか。彼はローマ書を初めとするパウロ書簡の存在自体をジェルトリュードから 隠しているのだが、牧師の執拗な「野の百合」の存在の否定は、問わず語りに、彼が隠蔽しているものの存在を指し示してしまう。 勿論、ジェルトリュードはそれにとっくに気付いている。
だがここで問題にしたいのは、牧師がベートーヴェンの「田園交響楽」について2月29日の記述で、 On y jouait précisément la Symphonie pastorale. Je dis « précisément » car il n’est, on le comprend aisément, pas une oeuvre que j’eusse pu davantage souhaiter de lui faire entendre.と記していることだ。決してこの選択は恣意的なものではないし、 音楽を良く知り、自らピアノを弾いたらしいジッドが意図的に選択したものと考えるべきだ。その後ジェルトリュードが習得するオルガン 演奏については、盲目のオルガニストが数多くいることからも違和感はないが、ここに中期ベートーヴェンを導入するのは如何にも牧師の 思想に似つかわしく思われる。良く言われるのは、この作品が「絵画的な描写ではなく、田園での喜びが、人々の心のなかに 引き起こす、いくつかの感情を描いたものである」というベートーヴェン自身の言葉だろう。要するにここには超越的な神のための余地はないし、 罪ある人間の有限性の認識もまた、ない。
それはカール・バルトがいみじくも「ローマ書講解」の第7章「自由の中の宗教の現実」(7.14~25)の節の冒頭で、シュライエルマッハーの言葉を引用しつつ、 「世界におけるあらゆる出来事を神の行為と考える」能力として宗教を賛美し、「人間のあらゆる行為に、聖なる音楽のごとく 伴わしめる」ことを試みるものとしたロマン主義の心理学に対応するものだろう。若き日に自由主義神学にひかれ、更にマルクスも ドストエフスキーも、ニーチェも通過した(これらをジッドもまた通過したことを思い起こそう)カール・バルトはジッドの「田園交響楽」とほぼ時期を同じくして 執筆されたこの「ローマ書講解」のまさに同じ箇所の冒頭において「宗教の意味は、罪がこの世のこの人間を支配する力を示すことにある。」と 言い切っているのである。だがジッドはジェルトリュードを「小川の風景」の中で溺れさせ、嵐の後、牧師を砂漠の中に放置して何らの解決も与えず、 作者たる自分は登場人物に責任を押し付けて念願の「贋金作り」に励むのだが、そうすることでまさにここで自ら設定した問いから逃げたのだ。 カール・バルトの言葉もジッドに言わせれば、ジャック同様、「愛よりも理論が勝っている」などと抜かすのであろう。だが、それ自体、愛という言葉、 理論という言葉の濫用に基づく詭弁に過ぎない。ジッドは自分がプロテスタント的、ピューリタン的な発想に束縛されていることに自覚的で あったが、そこからの脱出の方法もまた、ロマン主義の心理学に束縛されていることに対しては無自覚だったとしか思えない。
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