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ハゲマス会「第19回狂言の会」を観て

「今参」山本則秀・山本凛太郎・山本則重
「八句連歌」山本東次郎・山本則孝
「菌」山本則俊・山本泰太郎・山本凛太郎・武田泰我・武田空我・森田惇之介・八角拓実・岡本浩太郎・伊藤慶太・水木武郎・山本則重

2017年1月22日(日)川崎市麻生文化センター


昨年に引き続き、「ハゲマス会」の公演を拝見した。天気にも恵まれ、行き帰りとも徒歩で会場との間を行き来する。今年は4日から仕事、かなり色々な出来事があって、なかなか1か月が経たず、新年の催しという感じは個人的には霧散してしまっていたけれど、拝見してみれば、そこには身辺の折々のリズムに捉われない、もっと大きなリズムがあることを感じ、我に返ったような気持ちにさせられた。狂言のような伝統芸能は、寧ろ、季節の循環のような自然の秩序により近しいものと感じられる。能とは異なって非日常の出来事が語られる訳ではなくとも、そこには、日常を描きながら、日常の向こうにある何物かを垣間見させる働きが、狂言にはある、少なくとも山本家の狂言にはあるということを認識させられずにはいられなかった。

「今参」は、今や若手というのは最早適切ではないかも知れないが、則重さん、則秀さんの兄弟に、彼らにとって甥にあたる凜太郎君による上演。この作品、大名が家来を抱えようとするという、ありがちなパターンで始まるが、烏帽子を付けて演じられ、物尽くしのような言葉の芸が披露され、寧ろ「言葉の力」に纏わる祝言の色彩が濃厚である。

ということは、ある時は機知に富み、ある時にはどこかとぼけたやりとりに対する笑いも、それ自体どこかで呪術的な、祝言としての側面を帯びていく筈であるのだが、そうした側面を上演の流れのうちに浮かび上がらせていくことは、山本家の狂言ならではのものとはいえ、一朝一夕で達成できるものではあるまい。

前半の則秀さんの大名と凜太郎君の太郎冠者のやり取りなどは随分と自然に会場の笑いを惹き起こすものであったし、後半も則重さんの新参の者の、言葉による芸尽くしも見事なものであったけれど、それらが溶け合って、全体がまるで音楽のように有機的に浮かび上がったとしたら得られたであろう、圧倒的なカタルシスには至らなかったのは、贅沢な望みかも知れない。

概して祝言の曲は手強く、それを思えば大健闘と感じられたが、いつの日か、その時には最早若手と呼ばれることはあるまいが、そうしたカタルシスを感じられるような上演に至る日が来ることを期待したい。

「八句連歌」では、うって変わって東次郎さんの熟し切った境地を目の当たりにすることになる。
益々お元気のご様子で何よりだが、それでも随分とお歳を召されたな、と思わずにはいられない。だが実際に舞台に接して受けた印象は、そうした感慨とは正に反対のものであり、大いに驚くことになる。

もともと山本家の中でも、(勿論、そうした側面に欠けるというのでは決してないが)剛直さや絢爛さよりも洒脱さ、都会的な洗練、飄々としたかろみが東次郎さんの舞台では強く感じられたのだが、この日の舞台は、まるで、自らが築き上げ、守ってきた枠組みを撓ませ、軋ませんばかりの、何か迸るような表現意欲のようなものが感じられて、圧倒された。もしかしたら、人によっては自在の境地、自由闊達の飄逸と受け止めたかも知れないものが、私には、ある種の凄味として感じられたということなのかも知れない。

詞ですらない発声、ちょっとしたしぐさや表情が凄まじいばかりの表現意欲を帯びて、会場の反応を引き出していくのは圧倒的だったが、まさに独自の芸境とでもいう他ないものに接して、私個人としては、拝見して、笑うことなどできなかった、というのが正直な印象である。

一方で、そうした東次郎さんの演技の強度によく拮抗し得た則孝さんも見事で、進境を感じられた。

休憩をはさんで、最後は「菌」。キノコを演じる、笠を被った大勢のアドが舞台の上を動き回る賑やかな作品で、ある意味で番組の掉尾に相応しい。

だが、それよりも鮮やかなのが、則俊さんの山伏が最早これまでと、調伏を止めて逃げ出す間合いの確かさであり、実際には自信過剰の山伏の疑わしい法力に対する揶揄が含まれているであろう作品の鋭い諷刺を表現するのではなく、聴き手の心に訴え、乱すのではなく、様式的な美しさと均整を損なわずに、それらのもたらすリズムの鮮明さの余韻として見所の心に残していく演技の冴えは、圧倒的なものであった。作品の長さとしては聊か短めなのであるが、「序・破・急」のリズムも明確で、番組全体の中においてもまさに「急」として、番組の締めくくりに相応しいものと感じられた。

順序が逆になるが、それは一方で、前半の能がかりの荘重な謡の見事さがあればこそであって、とりわけてもこのような重厚で、格調の高い謡もまた則俊さんならではのもの。続く最初の祈祷では、一旦はくさびらは退散したかに見えるのだが、出だしの謡は勿論のこと、東西南北の明王の名を唱えるところなど、筋書きを知っていてもなお、さもありなん、と、見所にさえその法力の功徳をうっかり信じ込ませかねないような謡と所作の型の力があってこその結末であることを忘れてはなるまい。

ところで冒頭に書いた、その折々に卑小な自分のような存在が巻き込まれて右往左往することを余儀なくされる日常の些事とは異なる、より大きなリズムの印象は、勿論、番組を通しての印象には違いないのだが、ひときわ優れて、この「菌」の上演の余韻がもたらしたものであるのかも知れない。現代にもなお跋扈する怪しげなその類の商法に対するそれにも繋がるのであろう諷刺の鋭さはそれとして、もしかしたら、実際に功徳のないわけではない法力さえ及ばない力があるのだということをも、あの結末は示唆していたのではないか。

祝言性の強いものは勿論だが、そうではない作品においても、どこかで人間の力を超えた秩序というものの在り処を指し示し、観る者の不安と驕慢の両方を正すような働きを、狂言の作品は備えているのではなかろうか。実際のところメンタルにもフィジカルにも余裕ある状態で拝見できたわけではないのだが、寧ろそれだけに、そうした狂言の力というのを感じさせられた。単なる娯楽ではなく、今尚、どこかで人間の力を超えた力に対する奉納の儀礼のような側面があればこそ、山本家の狂言を拝見し続けているのだということを改めて確認したように思うのである。

最後に19回の長きに渉り、そのような貴重な場である会を企画・運営されてきた森宮先生を初めとする主催者の方々、後援者の方々、山本家の方々への謝意を記して、この感想の結びとしたい。(2017.1.30公開)

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