日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(3)
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かつて私が最初に読んだのは、今から35年近く前、丁度マーラーの音楽と出逢い、「カラマーゾフの兄弟」と出逢ったのと同時期であり、それ以来、 この作品は、遠ざかっているときでも或る種の基調音として、時折は明確に主題的に自分に問いを突きつけるものであった。 最初に読んでから4,5年してからだろうか、しばらく距離をおいてから、改めて読み直したことがある。(ちなみに、最初に読んで以来、 私は山内義雄訳でずっと読んできて、しばらくしてから原文で読むようになったが、その後も翻訳の中では山内訳に拠ることが多く、他の翻訳は 比較対照のために参照するに過ぎない。)その時に特に強く感じたのは、アリサの父の振舞いがアリサに及ぼした影響であったのを記憶している。 勿論、その影響が直接的に、実際の対話的な状況で発現したのが、ここで問題にしている場面であるのは当然である。ここでアリサは否応なく、 過去を思い出し、自分が置かれている状況をその文脈に置かざるをえなくなる。その結果アリサは、相転移が起きる特異点に達して、 そこを踏み越えてしまうのだ。第7章の「聖らかさ…」という呟き(– La sainteté… si bas que, ce mot, je le devinai plutôt que je ne pus l’entendre.)、そして、『十二夜』を引きつつの« Assez ! pas davantage ! Ce n’est plus aussi suave que tout à l’heure. »という言葉。アリサの日記に読み取るべきは、こうした言葉を導き出さしめた動因であって、ジェロームの鈍感さに よって読み取られなかったアリサの心の動きなどではない。それは(仮にジェロームの言葉を信じて、彼が読み取れなかったことを認めたとしても、 -もっとも、彼のそういう言い方には、回顧する心の働きによる或る種の加工があると思うべきで、彼はそう言うほどには読み取れていなかった わけではないかも知れない可能性を寧ろ考えるべきだろう)第7章を読む「読者」にとっては明確なことではないのか。アリサの日記によって明かされるのは、 彼女が、ジェロームの明確な結婚に対する希望の表明に対して、先延ばしにしたりすることなく、即座にあの様な返答をするに至った ジェロームの知らない間に起きた出来事である。アリサはもう、後には引き返さない。迷いはあるし、絶ち難い心の動きはあるけれど、 それらを寧ろ利用して反発力を得るかのように、パスカルを捨て、ピアノの練習を捨て、遂には家を出てしまうに至る。「私は年老いたのだ。」という 第8章のアリサの決定的なことばの重みは、一見するとそのように読めるにも関わらず、そしてその時のジェロームがまさにそう誤解してしまったように、 その場を取り繕ったことばであるわけではない。この言葉は、誰よりもアリサ自身にとって、ありのままの風景、展望であったろう。 彼女は相転移の向こう側の領域にいるのだ。だからジェロームの見ているのは、文字通り「幻」なのである。
裏返せば、アリサは初めから相転移の「向こう側」に居たわけではない。「私は年老いたのだ。」という言葉を文字通りに受け止めるとどうなるか。 まず年老いる、とは以前のようではない、以前とは変わってしまった、相転移が生じて、 以前とは別の相に既にいるのだ、ということに他ならない。アリサの日記は、その異なる相から響いてくるのだ。アリサはある一線を越えてしまった。ヴァルザーの描く、 ブレンターノが入っていったというあの門が思い浮かぶ。(それはカトリックへの帰依に関するものだったから、寧ろ10年後の「田園交響楽」のジェルトリュードに こそ相応しかったのかも知れないが。)
勿論、アリサもまた、正統的なキリスト教の教義からすれば、逸脱した恣意的な理解に陥っているのだろう。 ジッドはニーチェをプロテスタンティズムの極限点と見做していたらしいが、ニーチェの歩みをアリサの歩みと類比的に見る見方(山内義雄が紹介している)は 必ずしも的外れではないと感じられる。極限点は、向こう側なのだ。ただしそこでは何も許されない。「狭き門」はそれ自身閉ざされる。二人で通れないのではない。 門は常に、その人のものだ(ここからカフカの「掟の門前」に、そして「審判」に補助線を引くことができるだろう)。門をアリサは自ら閉ざした、という人がいても 不思議はない。
遠藤周作は、「狭き門」について「一見、”純粋にみえる”(原文傍点)恋愛のかげに不毛な神への追求の悲劇が巧妙にかくされている」のであって、 最後の「さあ、目をさまさなければいけないわ…」というジュリエットの言葉が作品の鍵だと述べているらしい。しかしこの評は(若林のそれも似た点があるが)、 隠されてもいないものを「隠している」と言い、もはや恋愛でないものに変質しかかっていることに当事者達が(別々の仕方でだが)気付いていることを あからさまに描いているにも関わらず、「純粋にみえる恋愛」などどいう言い回しをしている点で、奇妙である。ジッドが企図したことがピューリタニズムへの 批判、或いは自分がその裡にあったことへの、そしてそこからとうとう脱出できないことへのルサンチマンであるとして、まるで論点がずれているし、 しかも批判するならするで、例えばモーリヤックやデュ・ボスのような論点を提示するならともかく、上記のような言い方は少なくともジッドに対して フェアではないと感じられる。(ちなみに、私はモーリヤックやデュ・ボスのジッド批判は妥当であるし、ジッドの問題点を射抜いていると思っているから、 その点でジッドを擁護するつもりはもともとない。)上のような評をするならば、では一体、みせかけでない「純粋な恋愛」とは一体何なのかを示すべきなのだ。