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アントン・ヴェーベルン(1883-1945):ヴェーベルンを巡っての8つの断章(5)

V.

聴感の問題、Op.21以降は異なる。
それは否定的に考えられるべきものか?
音楽史の問題ではない、世界に対する姿勢の問題として。
後期の聴き方は、だから重要だ。

後期の問題。音程関係が均質化されるとメロディーラインの表現するものの区別を見出すことが困難になる。
表現主義的な無調の時代と異なって、どの音楽でも「同じ世界が表現されている」ように聞える?
しかし、これが「個性」という「均質性」ではないのか?ブルックナーの交響曲のような場合と比較してどうなのか?
歌詞と音楽との関係は単純ではない。例えば宗教的なテキストにつけられた音楽が示しす多様性を考えよ。
一方で、初期の表現主義期との関係や、ヴェーベルンの内部での音楽の空間の中での位置付けは、やはり重要だ。

クセナキスのヴェーベルンへの(ある意味では大変に辛辣な)評価、初期は映画音楽、後期は退屈(dull)。
これは実際には、アドルノの賛辞と大きく異ならない。

例えばop.28のカルテットの静的な性格は、否定し難い。初期の作品の過度の感じやすさもまた。
主体がこうやって(アドルノはカフカのオドラデグを引き合いに出す)希薄になり、とうとう消滅するのはクセナキスには考えられないだろう。
クセナキスの音楽は暴力的な外の音楽だろうが、それは同じように暴力的な主体を前提にしている。(それは音楽の中にはないが、手前には確実にある。)
人間であることの限界に耐え難さを感じる、或る種のヒュブリスがある。

ヴェーベルン本人は、頑固で、およそ融通のきかない人間だったろうが、その頑固さがop.28の様な作品には反映している。
つまりここでの主体の消滅もまた、作品の界面に限った出来事で、作品のおける主体の拒否は、現実におけるヴェーベルンの世界の拒否のネガではないか、と疑ってみることはできるだろう。

しかし、これもまた「現象から身をひく」仕方の一つではないのか?あちら(マーラー)では顕揚されるそれと、ここ(ヴェーベルン)の晩年にどういう違いがあるのか?

ヴェーベルンの晩年には「死の影」がない?ヴェーベルンはその直前まで、自分の最期を予期してはいなかっただろう。
現象から身をひく、その理由が、従ってその様態が異なるのか?

ヴェーベルンにおける老い?
ベルクの死、ヴェーベルンにとってのほとんど「二人称の」死はどうなのか?あるいは息子の死は?
寧ろ一見「勝者」に見えるマーラーの方が、大地の何であるかをわかっていた?
ヴェーベルン最後のないものねだり?

(2002--2007.6.14 執筆・公開. 2024.9.5 noteにて公開)

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