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ハゲマス会「第13回狂言の会」を観て

「鍋八撥」山本則孝・山本則重・山本則俊
「昆布売」山本東次郎・山本則俊
一調「貝尽し」山本則俊
「福部の神」山本凛太郎・山本東次郎他


麻生文化センターでのハゲマス会主催の大蔵流山本家による狂言の会に足を運ぶ。幸いにして新年始まってすぐの 仕事の山の峠を超えた時期に開催されることもあり、出張疲れは残ってはいたが、体調にも妨げられず、今年も例年の 如く拝見することができた。番組は前半が「鍋八撥」「昆布売」の後、一調「貝尽し」、後半が盤渉早舞のお囃子に続いて「福部の神」。 季節への配慮が為された折角の番組なのに、私はといえば正月気分は既に雲散霧消してしまっていて、主催者や演者の方々に対して 些か申し訳ないような気分になりはしたが、これまた例年の如く充実した舞台に感銘を新たにしたので、 以下、特に印象の強い番組前半を中心にして簡単に感想を書き留めておくことにする。

「鍋八撥」は浅鍋売りが則秀さん、鞨鼓売りが則重さん、目代が則俊さんのご一家による上演。演者の個性と役柄が巧く噛み合って 見ごたえのある舞台。則重さんと則秀さんのやりとりの呼吸がこれまでにも増して自然で自在に感じられ、一段の進境を示しているように 感じられた。則俊さんの目代は口開けの口上の後は会話のやりとりの蝶番のような役割だが、二人の対比を引き立てるだけでなく、 目代の役人としての巧まざる造形も見事で、例えば浅鍋売りが持ちかける物品供与に反応するところなどでは、つい「佐渡狐」の 役人のことなどを思い浮かべつつ苦笑してしまう。だが勿論主役は浅鍋売りが則秀さん、鞨鼓売りが則重さんの二人であり、 一見したところ地味だけれどもちゃっかりとして悪知恵の働く浅鍋売りと、押し出しが良くて負けん気が強そうで実は人の良い鞨鼓売りの 対比は見事だし、科白の反復、所作の反復につけられたコントラスト、二人が揃って型をするところでの微妙なズレの面白さなど、 見所の連続。最後の部分での鞨鼓売りの軽業も見事なら、浅鍋売りがとうとう鍋を割ってしまった後の留めの詞も見事で、 脇狂言に相応しいすがすがしい舞台であった。

則俊さんの「昆布売」を拝見するのは二度目、前回は2007年12月16日の喜多流職分会で大名は則秀さんだった。 今回は東次郎さんが大名を勤められ、豪華この上ない配役。もともとこの「昆布売」は色々な節付けで昆布売りの口上をやって みせるなど、芸尽くしのような側面があるのだが、それを則俊さんと東次郎さんが演じられるのだから面白くないわけがない。 自在な呼吸での詞のやりとり、太刀が昆布売りの手に渡ってからの二人の態度の豹変ぶりが、磐石の技術に支えられて なんとも軽やかに提示される。踊り節で口上をやっているうちに二人とも浮かれてしまって、急転直下の追い込みによる 幕切れもどことなく晴れやかさが残る。こうした舞台が拝見できるのは本当に素晴らしく、贅沢な経験に思われる。

一調「貝尽し」は山本則俊さんの謡と太鼓によるもので、これまた祝言に相応しい物尽くし。こうした作品が聴けるのも この会ならではで、主催者や演者の方々の見識に頭が下がる。これまでは小舞が演じられることが多く、それらもまた素晴らしい ものだったが、今回の一調も素晴らしい。今後も是非取り上げていただきたいと思わずにはいられなかった。

番組後半は例年そうであるように、狂言の会ならでは大人数による「福部の神」。これは筋らしい筋もなく、奉納そのもののような作品 であり、特に後半、作り物こそ出ないが輪蔵の周りを皆で回る所作がつき、山本家の狂言の持つ様式性とあいまって、 いにしえの儀式が再現されるのを目の当たりにしたかのような印象を覚えた。狂言はややもすれば深い問題意識に支えられた 主題や微妙な心理の綾を浮かび上がらせる科白のやりとりに注目されることが多いように思うが、そしてそれ自体決して間違いでは ないのだろうが、それとともに寧ろ喪われつつある、あるいは既に喪われてしまったと見做されているかも知れない「記憶」を、その 揺ぎ無い様式性によって継承するといった側面があることを感じる。東次郎さんが終演後に語られていたように、確かに時代が 移ろうにつれ、言葉がわからなくなったり、風景にリアリティがなくなったりといった側面は否定できないが、それでもなお、確実に 伝わるものがあることを感じずにはいられない。今回は特にそうしたことを強く再認させられたような気がする。

(2011.1.23 公開, 2024.11.6 noteにて公開)

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