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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(24)

24.

リチャード・グレゴリーがMirrors in Mind(邦題「鏡という謎」)で紹介している日本における開眼手術後の鏡映像認知に関する実験事例によれば、認知がもっとも困難なものは、 自分の鏡映像であったが、これは、他者の身体のなかで認知が一番容易な部分は洋服であり、次いで容易なのは頭や手で、顔の認知がもっとも困難であることから 説明ができるという。即ち、われわれは鏡に映った自分を認知するとき、顔の特徴を手がかりとして用いなければならないが、このケースでは、4歳9ヶ月のときから何度も 手術を受け、13歳で視覚獲得の手術を受けた被験者の少女は、3年間の視覚の学習を経た後でも、人の顔を視覚では識別できず、それゆえ効果的な視覚を 獲得するための対象との相互作用が全く得られない鏡に関しては文字通り、手がかりになるものがないのである。

そしてこのことは、19世紀末のスイスの小さな村に舞台が設定され、ほぼ電力とは無縁といって良い環境の裡で繰り広げられる「田園交響楽」における問題が、 映画やテレビのような映像メディアが発達した今日の状況においてはより深刻で極端なかたちで現れる可能性を示唆する。その一方で、鏡に自分の顔を映して 見られることに対する不安を日記に書き付ける牧師が、ジェルトリュードの現実を全く理解していないことをも告げているだろう。そしてまた、ジッドがジェルトリュードに ジャックと牧師の相貌について語らせるとき、ジッド自身が最大のハンディキャップを負っていることを認めざるを得ないのだ。

グレゴリーは上掲書においても触れているが、その有名な著作 Eye and Brain(邦題「脳と視覚」)の第8章知覚学習の章の視覚の回復と題された節において、 「モリヌークスの問題」の紹介の後、彼自身が同僚と研究してきたS.B.という52歳の時に角膜移植を受けた男の事例を紹介している。この事例は著名で、 以下に紹介するサックスの著作でも参照されていて、逆にグレゴリーの方でもサックスの事例に触れているが、開眼直後に医師の顔を認識することができなかったこと、 その後も3年後に死亡するまで、人を顔で識別することが全くできなかったことが記されている。手で触れることのできないものの認識はできなかったことをジェルトリュードに 適用してみるならば、彼女に第一の手帖の末尾で語らせている風景が、ジッドの無知による虚構、単なる想像上の風景よりも尚悪い、ジェルトリュードに 自分が負わせたハンディキャップを無視し、不可能事をジェルトリュードに押し付けているという意味での虚偽の産物であることがわかる。

なおグレゴリーが参照している上記の事例は、望月・鳥居の事例については、それ以外の事例とあわせ、鳥居修晃・望月登志子 「先天盲開眼者の視覚世界」(東京大学出版会, 2000)によって日本語で読むことができる。また鳥居・望月が翻訳しているM. フォン・ゼンデン 「視覚発生論 先天盲開眼前後の触覚と視覚」(協同出版, 2009)は、基本的な文献であり、これらを読むことによって、ジッドが自分の恣意的な空想で でっち上げた物語(まさに一人称視点の恣意により支配されるという意味で、二重の意味で、つまり牧師と作者ジッドの両方のレベルで「レシ」と 呼ばれるに相応しい)が正しくはどのように書かれるべきであったかについての情報を獲得することができる。

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