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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(24)

24.

最後に部屋に入ってくるランプの灯(Une servante entra, qui apportait la lampe.)は、何を浮かび上がらせたであろうか。 これは一体何の象徴なのか。いずれにしても、この結末は(ジッド自身の後付の理屈も含めて)この物語に関する皮相な解釈を 物語自体の持つ力、バルトが写真論で述べたあのpunctumに極めて類似した力によって粉砕してしまうように見える。

ここでは物語を語る衝動はどこに由来しているのか?なぜ語らずにはいられないのか。アリサの自己放棄の裡には、芸術的なもの、 物語ることに対する批判と拒絶がありはしまいか?アリサはパスカルを拒絶し、沈黙の中へと退隠していく。だがそうしたアリサのことを 書き留めずにはいられない衝動があるのだ。批判であると外から作者としてジッド自身が主張するにも関わらず、少なくとも物語の 内側では批判に対する最終的な留保すら宣言されてしまう。「目を覚まさねば」がそうしたジェロームに対する批判であるとしても、 物語を語るのはジュリエットではなく、そうして批判される目を覚ますことなきジェロームなのだ。一方では「狭き門」は「アンドレ・ワルテルの 手記」の題材の継承なのだが、書き手の交替は決して無視することができない。他方ではジッドは「狭き門」を「背徳者」と 一対のものと考えていたようだが、実際には一対であってもそれらは完全に対称というわけではないのだ。「背徳者」の語り手は 「狭き門」とは全く違う。当事者の一人が語るのは「田園交響楽」もそうだが、そこでは語り手=日記の書き手であり、 「アンドレ・ワルテルの手記」に寧ろ近い構造をとっている。「狭き門」は挿入される「アリサの日記」によって同じ出来事に対する 別の視点が導入される。語り手自身の日記は不可視であり、直接、物語を語ろうとする。そこには「田園交響楽」の第1の手帖の ようや装いすら用意されていない。時間的にも、「狭き門」は物語の時間である過去への眼差しがあり、結末の部分すら、 最近の出来事ではあっても冒頭よりは過去の出来事の回想である。語り手の現在は第二次想起によって回顧される 物語の時間とは何らかの意識の中断によって隔てられている。「アンドレ・ワルテルの手記」の末尾と、「田園交響楽」の末尾とは いずれもそれが「手記」の内部であるというのは虚構であり、書くことの差延を隠蔽して、あたかも書き手が経験すると同時に 手帖を書きとめているかのようだ。もし「アンドレ・ワルテルの手記」の末尾が狂気に陥った手記の書き手の妄想であるとするならば、 「田園交響楽」の末尾もまたそうではないと何故言えるのか?「狭き門」の末尾は、そうした破綻を逃れている。もっとも、若林の ように、末尾のジェロームを廃人呼ばわりする評者も存在することは存在するのだが、それが現実離れした研究者の言葉遊びの 類にしか見えず、「廃人」という言葉を軽々に用い過ぎているように私には感じられる。そう、ジェロームはアンドレ・ワルテルでも、 「田園交響楽」の牧師でもない。「廃人」と呼ぶならそれも結構だが、その「廃人」こそがここでは物語の話者に他ならないのだ。 芸術と自然の対立を云々するなら、寧ろ問題とすべきはこの位相ではないのか?一体、物語を語ること、その衝動自体は、 評者たちの問題系の中で一体どのような位置を占めているのか?

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