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「第24回二人の会」

狂言「福の神」
シテ・山本則俊
アド・山本則秀
アド・若松隆
後見・山本則重
地謡・山本東次郎・山本則直・平田悦生


能にもその傾向があるように感じられるが、能以上に狂言で祝言性が強く、かつ地謡を伴った作品が取り上げられることは少ないように思われる。ところが奉納の色合いの強い このような作品を山本家が演じると、そうした作品が狂言ならではのおかしみを備えつつ、愉悦感に富みながら、高い品格と磨きぬかれた様式性をもって見所を惹きつけて離さない 魅力を備えていることが圧倒的な説得力をもって感じられる。今回の「福の神」は、まさにそうした特質を十二分に湛えた最高の上演だったと思う。 アド2人が同じ所作をし、同じ詞章を語るときの対称性と反復の美しさ、福の神が現れて、幸福になるには「元手」が必要だと語るときのおかしみと緊張のバランス、 一瞬アド2人の心の裡によぎる影と元手とは心の持ち様のことだと福の神が語った後の晴れやかさとの鮮やかな対比、その後高潮し、地謡の謡に合せて福の神が舞う姿の神々しさ、 軽やかさと力強さの絶妙のバランス。陰影にも事欠かず、それでいて観る者の気持ちを決して濁らせることのない清々しさは まさに狂言ならではのもので、こうした舞台を拝見できるのは何にも替え難い。そして奇跡は最後に起きる。神が一笑いしてリズムも鮮やかに留める時、表情を変える筈のない面が 満面の笑みを湛えるのを目の当たりにして、まるで「神が降りた」の目撃したかのように見所はあっけにとられる。笑みを残したまま飄々と橋掛かりを去ってゆく神を呆然と見送って、 幕が降りる頃、ようやく拍手が起こる。 もしシテの山本則俊さんにお尋ねしたとしても、いつもの通りにしただけですとお答えになるに違いない。けれどもその「当たり前」が奇跡を起こすのである。 最後の一瞬はそれだけが単独で生起するのでは決してなく、作品全体がその最後の一点に向かって収斂していくのだ。だからそれは決して偶然などではなく、寧ろひとつひとつの 技術の積み重ねの必然の結果であるに違いない。ともあれ私にはいまだ、福の神の笑みが目の底にしっかりと定着されている。

(2009.12.26初稿, 2024.10.18 noteにて公開)

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