魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(6)
6.
「狭き門」からのエコーを2点。
固有名の問題。「狭き門」のアリサはかなり遅い段階までジェルトリュードと呼ばれていた。それをジッドは校正をしつつアリサに置換していく。そしてジェルトリュードは、 「田園交響楽」で採用される。
belle/jolieの対立と、リュシール・ビュコラン(très belle)、アリサ・ビュコラン(jolie)、ジュリエット・ビュコラン(belle)への分配が「狭き門」では問題であった。 「田園交響楽」でのジェルトリュードと牧師の会話ではどのような配分になっているか?
ここでの配分をどう考えたら良いのか?「狭き門」の配分とは異なるのか?それともジッドの固有語法として、横断的に考えるべきなのか? もし後者だとしたら、ジェルトリュードの問いと牧師の応答はどう捉えられうるか?
もう一点、ここでジェルトリュードは、「田園交響楽」の美との対比を行っている点にも留意する必要があるだろう。もしかしたらジェルトリュードは 田園交響楽の世界との調和を意識しつつjolieという言葉を選択した、とジッドが仕組んだかも知れない(だが、先行する田園交響楽に関する件では、 beauが用いられている。)。そしてそれはかつて別のところで自分と 同じ名前を持つ筈であったアリサのそれと同じであると。それに対して、牧師は直ちに、la beauté des visagesを、すぐさま否定するためであれ、 問題にしてしまう。まさにリュシル・ビュコランの美しさの側に真っ先に飛びつかざるを得ない有様をジッドは描き出しているように見える。 勿論、la beauté des âmes が問題にされはするし、それを経由して、牧師は結局ジェルトリュードがjolieであることを認める。しかも 自分でわかっているだろうとさえ言う。ということは、最後の部分では盲目であることによって知りえない筈のla beauté des visagesが問題ではなく、 まさにjolieかどうかが問題にされているのであり、その限りで彼女は盲目ではないと言っているのだ。
不思議なことに、ここの部分では、「狭き門」におけるような翻訳の問題は起きていない。神西訳は「奇麗(jolie)/美しい(belle)」、新庄訳、 入沢訳、中村訳、白井訳、若林訳、手塚訳は「きれい/美しい」と対比させているようだ。(もっとも神西訳と中村訳は、先行する「田園交響楽」の件では、 – Que cela doit être beau ! répétait-elle.(28 fév.) / – Est-ce que vraiment ce que vous voyez est aussi beau que cela ? dit-elle enfin. – Aussi beau que quoi ? ma chérie.(29 fév.) というところを「奇麗・きれい/美しい」としていて、一見したところどこまで意識的であったかについて 疑問を抱かせる点もあるが。)一方で、 川口訳、堀口訳、今訳は無頓着であり、両者とも「美しい」である。(更に悪いことに、今訳、手塚訳は、田園交響楽の件の方は「きれい/美しい」としている。 もしかしたら底本の差ということもありえるが、普及版とプレイアード版・全集版との間の違いはここについてはないようである。)
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