魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(16)
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第二の手帖5月3日の日記に出てくる、フィヒテの講演への参照。Est-ce trahir le Christ, est-ce diminuer, profaner l’Évangile que d’y voir surtout une méthode pour arriver à la vie bienheureuse? ここでイタリックになっている部分は、フィヒテの Die Anweisung zum seligen Leben, oder auch die Religionslehre (1806)のタイトルをいわば借用してきたことを告げているように 思われる。フィヒテ講演の方の邦訳題名は「浄福なる生への指教」「浄福なる生への導き」などだが、それを利用している 「田園交響楽」の翻訳は皆無だし、注釈をつけている翻訳においても、上記のイタリックがフィヒテの講演への参照であるという 注釈は見当たらない。だが、フィヒテの哲学上の立場、生涯における出来事を思い起こせば、牧師がここで言及するのは 決して不自然ではない。フィヒテは『あらゆる啓示批判の試み』(Versuch einer Kritik aller Offenbarung)でカントの実践理性批判 に依拠して宗教について論じることから哲学者としてのキャリアを開始し、イエナにて1799年に、神概念のあり方をめぐり、 無神論論争 (Atheismusstreit) を引き起こし、無神論者と見做されてイエナを去ってベルリンに移ることになる。 「浄福なる生への指教」は1801年が分岐点とみなされるフィヒテ後期の講演の一つなのだが、絶対者が概念上優位を占めるように なるとされる後期フィヒテにおいても、その神はキリスト教の神とは異なったものであり、浄福なる生に到達するための方法 (méthode pour arriver à la vie bienheureuse)もまた、正統的なキリスト教のそれとは異なったものにならざるをえない。 ところで「田園交響楽」に関して興味深いのは、Die Anweisung zum seligen Leben, oder auch die Religionslehre の講演が 行われた時期が、まさにベートーヴェンの中期に重なることである。第6交響曲の初演は1808年。ベートーヴェンがカント哲学に 関心を持ち、宗教に関してもドイツ観念論に近い考え方を持っていたことが知られている。アドルノはベートーヴェンの音楽と ヘーゲル哲学をしばしば突き合わせるが、そうした文脈の中でこの参照を捉えれば、ジッド自身は若き日の滞在の時期、 ショパンよりバッハが相応しいと母宛書簡で語っているスイスの山中の村を舞台にするこの物語とベートーヴェンの第6交響曲との 結び付きを考える、単なる言葉遊び以上のものがあることを示唆しているものと考えることができるだろう。