アルマの「回想と手紙」にある「大地の歌」作曲のきっかけに関するコメント(アルマの「回想と手紙」原書1971年版pp.151--152, 白水社版邦訳p.144)
「大地の歌」の成立に関する混乱は、アルマの「回想と手紙」の上掲の記述に起因するようだ。これの真偽については諸説あるようだが、現時点では、ベトゥゲの詩集の最初の出版が1907年10月5日であるという記録から、マーラーが詩に出会ったのが1907年であったにしても、それはその年の夏の休暇の間のことではないし、1907年の夏にシュルダーバッハでスケッチが開始されたというのはありえないというのが一般的な見方のようだ(例えばHeflingのモノグラフのp.31を参照)。
アルマの回想の次章は「秋 1907年」と題されるが、そういうわけで1907年というのはアルマの(あるいは故意の?)記憶違いであったとしても、その一方で大地の歌の作曲がまさに「秋」の雰囲気の中で始められたということは間違いではないようだ。残された草稿の日付から推測するに、マーラーは恐らく第2楽章を最初に書いたらしいからである(1908年7月)。そしてその後の急速の作曲の進展の方については次に紹介するアルマの「回想」の1908年の章の記述の通りで、およそ6週間のうちに次々と6つの楽章の草稿が産み出されたようである。
ところで、その草稿の成立順序が完成した作品での楽章順と一致しないのは、一般には不思議でもなんでもないのだが、こと「大地の歌」については、その構成を死の受容のプロセスとして捉える考え方もあるのであれば、寧ろこの不一致にこそ人生と芸術の微妙な関係を見るべきなのではなかろうか。それをどの程度重視するかはおくとして、草稿の日付の順を書いておくと、日付のない第5楽章を除いて2-3-1-4-6とのことである(Heflingのモノグラフp.35の記述、またpp.47--48の表2も参照)。勿論、残された草稿の日付が何を物語るかについては慎重であるべきで、それとマーラーの心の中で起きたプロセスもまた、単純に同一視すべきではないかも知れないが、いずれにしても、(あるいはそうであればなお一層)、完成した作品の持っている内的な論理と創作のプロセス、そして「死の影の谷」を通過する心的なプロセスとの間の関係を解き明かす作業がそんなに単純ではないことを、この事実は物語っているように感じられる。
(2008.2.11 執筆・公開, 2024.8.11 邦訳を追記。2024.11.10 noteにて公開)