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バルビローリのブルックナー:第7交響曲・ハレ管弦楽団(1967年4月26日・マンチェスター、自由貿易ホール)

バルビローリがブルックナーの音楽を非常に好んでいたのは、ブルックナーの評価がドイツ語圏にほぼ 限定されていて、まだ評価が定まっていなかった時期のイギリスとアメリカで、それをしばしば取り上げた ことからも窺える。恐らくはレパートリー上の棲み分けの問題などもあって、正規のスタジオ録音が なかったため、バルビローリのレパートリーの中でブルックナーが占めている位置の大きさを知ることは、 近年のBBCによる放送音源や演奏会のライブ録音のリリースまでは一般には困難であったと言って良い。

そういった事情とは別に、バルビローリの「ヒューマニスティック」な芸風からして、ブルックナーとの相性について 疑問視する向きがあるのはある意味で当然なことではあるし、とりわけ近年の日本でのブルックナー受容の 傾向からすれば、バルビローリのようなタイプの解釈は、ブルックナーの本質を外したものだという評価が されるのは自然なことに違いない。かくいう私も、バルビローリのブルックナーが決して「的外れ」とは 思えないし、それをしばしば好んで聴く(だいたい、私は世代的に古いヨッフムを除外すれば、いわゆる ブルックナー指揮者の演奏を好んで聴くことはなく、戦前の巨匠でもブルックナー・スペシャリストでもない指揮者の 幾分「個性的」な解釈が好ましくて、バルビローリもそのうちに数えてもいいのかも知れないのだが)、 それでは当惑することがないのかといわれれば、全くないとは言い難いというのが正直なところで、 これはあくまで「バルビローリの」ブルックナーであって、例えばブルックナーを初めて聴く人に勧められるような ものではないとは感じているのである。音楽に刻印された主体の位置、主観性の希薄さという点では 比較的に近い存在であると考えられるシベリウスの演奏についてはそうした違和感はないので、寧ろこれは ブルックナーの音楽の特異性―反時代性といっていいだろう―を物語っていると考えている。それは、 アドルノがシベリウスを反動呼ばわりしたのよりも更に根深いものを持っているに違いなく、一見、ア・ラ・モードで すらあって同時代で人気のあったシベリウスについては思わず「反動」と見做して執拗な批判をするといった皮相な反応をして しまったアドルノが、ナチスに利用された感のあるブルックナーについては断片的に、やや批判的な仕方でしか 語っていないようにみえるのは興味深い。まあアドルノが予断している図式、ベートーヴェンの荘厳ミサに当惑を 隠せないような視点ではブルックナーのような「現象」について扱い得ないのは当然という気もするが。

さて、第7交響曲はブルックナーの交響曲の中でもバルビローリが最も好んだ作品で、非常に早い時期から 取り上げていたようだ。際立って流麗な旋律に富んだこの曲は、確かにバルビローリ向きといえるのかも知れない。 だが、リリースはそれまでの第9、第8、第3が2000年からほぼ1年おきに立て続けに行われたのに対して、 かなり時間があいてようやく2006年になってからになった。その理由はわからないが、もしかしたらライブ演奏に つきものの傷が問題視されたのかもしれない。もっともこれくらいの傷は、これまでリリースされてきたマーラーの ライブでもあったので、それが理由とも考えにくいのだが、、、
演奏は、これまでの3曲の演奏から想像されるような、構築的ではないのだが、時間方向の演奏プランが明確な ために非常に見通しが良い演奏である。各主題のテンポ設計も明確で、性格付けにも曖昧さはない。 フレージングは、これまたいつもの通り、非常に入念な準備が窺える丁寧なもので、バルビローリが如何にこの曲に 対して愛着を持っていたかを感じずにはいられない。興味深いのは、―これまたバルビローリらしいと思うが―、 ブルックナーの音楽の、しばしば自己反復的といわれる等質性よりも、各曲の持つ質の違いを捉えた解釈が なされていると思える点で、例えば、際立って内面的で主観的な音楽となっている第8交響曲と比べて、 この曲の演奏は、意識が外に向かって広がってゆき、ある瞬間にそれが非日常的なものに変容していく といったこの音楽の持っている外に向かって開かれた性格がはっきりと感じ取れる。 非常に早いテンポをとる(アラ・ブレーヴェにある意味では忠実な)第1楽章コーダも少しの違和感もないし、第2楽章の主題間の微妙なテンポの対比や、 それに基づくクライマックス(それは、全曲のクライマックスでもある)に向けてのテンポの設定(巨視的にみて徐々にリタルダンドしていくかのように 巧みに設計されている。)、そしてクライマックスを過ぎた後の、立ち止まり、静まっていく音楽の呼吸の深さ、 転調と音色の対比がもたらず陰影の鮮やかさも印象的だ。個別の部分の印象ではなく、 全体に通底する音調でもなく、ということであれば、しばしば批判の対象にすらなるこの交響曲の全体構造が、 問題視されることの多いフィナーレを含めて、全く自然なものとして描き出されていることがあげられるだろう。 曲によっては「わかりやすすぎる」かもしれないバルビローリの語り口、いわば「ストーリーテリング」の巧みさは、 この曲に関しては作品の構造に説得力を与える方向に寄与していると感じられる。そして何よりバルビローリらしいのは、 常に主体の姿が見え隠れすることだ。とりわけ第2楽章コーダにはそれがはっきりと感じられて、印象深い。 これまでの3曲でもそうだったように、ここでもブルックナーのアダージョが身体的な事象の感受であるかのように響くのである。

要するに、バルビローリはここでも「やってはいけないこと」をこれでもかとばかりにやって、ブルックナーの音楽の 本質を損なっているという廉で批判されることになるのだろう。もしそうであるならば、この解釈がブルックナー演奏の伝統が薄かった イギリスにおいて強い感銘をもたらしたばかりでなく、よりによってベルリンにおいてすら本人が戸惑うほどの非常に 大きな反響を呼んだのは一体どういうことなのか、第8交響曲でもそうだったように、ここでも「本質を外した」はずの演奏が、 かくまでに説得力のある、聴き手を揺さぶる力のある理由を問うてみなくもなるのであるが。

勿論、バルビローリのそれがブルックナーの演奏としては些か異形のものであることは確かであろう。とりわけこれだけブルックナーの音楽が 普及してしまった今日であれば、鳴らすだけならそんなに大変ではなく、それゆえ「誰々風」の味付けのコピーをしてみせること だってできるだろうが、バルビローリの演奏はそういった意味では全く誰にも似ていない。楽譜に虚心坦懐に向かって 時間をかけて自分の解釈を練っていき、そして実演でその解釈を十全に身体化した演奏をすることはやはり稀有なことだろう。 第8交響曲でも際立ってそうであったように、バルビローリの際立って意識的な作品へのアプローチは作品のローカリティを還元してしまい、 その結果として作品が表現している「質」が(ヘーゲル的な意味で)具体的に、だがそれだけに直接的で生々しいかたちで 表出されていると思う。(この点で共通性があると私が考えているのは―意外かも知れないが―ケーゲルの新ウィーン楽派以前の音楽の演奏である。 ケーゲルの解釈もまた、非常に意識的に練られたもので、音がどこで鳴っているかがわからなくなるような「怖さ」を秘めていると思う。 ケーゲルに関しては流布しているイメージからか、そうした感じを語ることには意外感がないようなのだが、バルビローリの場合には、 流布しているイメージが寧ろ邪魔をしていて、その音楽の持っている「鋭さ」は無視されてしまう。流布しているイメージが 鳴っている音を裏切るという点では、ケーゲルの音楽が間違えなく持っている人間性への信頼や素朴で透明な感情に ついては語られることがないのと、丁度好一対のように思える。)

ここに広がる場所は懐かしい、あの風景ではない。そしてブルックナーに関しては、もしかしたら作品が要求しているかも 知れない或る種の反応の「型」がここでは前提されていないことが、「標準的な」ブルックナー演奏をさんざん聴いた耳に とって違和感の原因になるということは確かにあるだろう。あるいはまたその意識的な入念さが、ブルックナーの音楽が 持っている破格な部分をまるめてしまっているという側面もあるかも知れない。だがけれども、これほど端的に 作品の力を感じることができる演奏もなかなかないと思う。それは当日の聴き手にも確実に伝わったものだろうし、 別にこの演奏一度きりのものではなく、別の場所での別の演奏にも備わっていたものに違いない。 それは常に一貫性のあるバルビローリの解釈そのものがもたらしているものなのだ。

もしあなたが流布しているイメージに捉われず、モノラルの古い音源であるという制約を気にせずに、ブルックナーの オリジナルで説得力ある解釈に触れてみようと考えているならば、この録音はその期待を裏切ることはないだろう。 最初に言ったことと矛盾するようだが、初めてこの演奏を聴いてブルックナーが「わかった」という人がいても不思議ではないし、 それが「間違い」だとは思わない。確かにスタンダードとは言えないブルックナーの解釈としては最も主観的な 部類に属するものには違いないが、にも関わらずその解釈が音楽を裏切っているとは私は思わないのである。

(2007 公開, 2024.7.12 noteにて公開)

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