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バルビローリのブラームス:第1交響曲・ウィーンフィル(1967)

 もしバルビローリの解釈が違和感を齎す可能性があるとすれば、それはこの ベートーヴェンの第10交響曲とも呼ばれる第1交響曲だろう。しかし実際には、 この曲の、構築的に書かれた筈の第1楽章ですら既に「移ろい」の印象が濃厚な 演奏だ。己に鞭打つように進もうとする意志とは裏腹に、音楽はそこここで 立ち止まる。美しいのは寧ろそうした「息つぎの」瞬間の豊かさだ。

 それゆえ、第2楽章も第3楽章も古典派的な交響曲の中間楽章の機能を忘れて、 その瞬間瞬間の経過の実質の豊かさの味わいつくすのだ。実際にはベートーヴェンの 交響曲とは異なって、楽章間のコントラストは弱められ、両端のアレグロは動機的な 連関があまりに強いゆっくりとした序奏によってその推進力を中和されてしまう。 規範となった古典派的な構成を実質において裏切っているようですらある。

 そうした換骨奪胎に対するバルビローリの対応は、例えばマーラーなら第5交響曲の それを思わせる。要するにバルビローリは決してこの第4楽章に無理をさせない。 中間楽章との間に断絶もなく、いきなり大言壮語を気取ることもなく、そのかわりに ここで発露される感情は真正のものだ。少なくとも実質においてこの音楽が ベートーヴェンから如何に遠く隔たっているかをこの演奏は物語っている。

 場合によっては、この演奏は人がこの曲に期待するものを与えないという廉で批判 されるかも知れない。けれども、ブラームスの音楽の基底にある資質がこれほど あからさまな演奏もめずらしいように思える。しかもここではそうした資質は、 ある種の風土のような自然さの裡にやすらっているわけでもなく、バルビローリは その形式との関わり合いの様相もひっくるめて、ありのままに読み取っていると 思えるのだ。

(2005.1 公開, 2024.8.23 noteにて公開)

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