断片XIII 「透谷」を巡礼する
私がしている「透谷巡礼」を「考古学的」と形容するのが適切かどうかについては、 正直なところ議論の余地があると思います。例えば、隣接する領域として、ここでは それとの対比が前提となっている歴史学以外にも、人類学、先史学、古生物学の ようなものが思いつきます。歴史学というのは文書記録に基づくものであり、 文字記録が残っている時代は歴史学の領分と一般にはみなされていますが、 たとえ明治時代であったとしても、文書記録ではない遺構に基づくものであれば それは考古学の領分ではあります。従って、透谷に関連した考古学的探究というのは 確かに成立しうる。だけれども、私個人の意識としては、過去の時代を遺構を 手掛かりに推定し、再構するといった意識は希薄だし、透谷が生きた時代に自分の 身を置く(仮想的な)操作をしている意識もありませんでした。 その一方で、指摘したいただいた点の中には興味深く思われた点は多々ありましたし、 「考古学」のアプローチと比較して浮かび上がってくるものが多々あるように 思います。
考古学と言えば、ミシェル・フーコーの「知の考古学」というのがあって、これは 歴史の連続性のようなものを前提としない、という点では、一脈通じるものが あるかも知れないし、背後に潜む構造を取り出そうといった意図についても 共通性を感じるものの、こちらが透谷という個人を相手にし、前提にしている点で、 相容れない部分があるだろうと思います。
もっとも、透谷というユニークで置換不能な個人を対象にしていて、だから 最低限、そこに人格的な統一というのを仮定はしているわけですが、さりとて 思想の統一性とか無矛盾性のような「人間学」的な前提条件に必ずしも 重きをおいているわけではないし、必ずしも透谷という人間の総体を捉えようと しているわけではなく、寧ろ或る展望のにおける彼の名前が署名された、 抽象的な空間における構築物、それが過去のものであるからには、まあ遺構と 呼んでもいいかも知れない、「思考」(の遺跡)の構造に対する関心が 中心なのであって(ただし、それは紛れもなく透谷という取り換えの利かない 個性の刻印がされているとも考えているわけですが)、それゆえ見た目以上に 接点があるかも知れないですが、いずれにしてもここでの考古学はフーコーの それではないようですので、こちらの方向への議論はこれ以上は行わないことにします。
まず前提として、「透谷巡礼」というのは、透谷の記念碑がある場所や透谷 ゆかりの場所を実際に訪問する行為のみに限定されるわけではななく、 その場で目に映ったものを写真に収めること、更にそれに日付を付して 並べること、Google Steet Viewで或る時は事前に、或る時には事後的に その場所を確認すること、透谷自身の文章や透谷に関する文献を読み、 それらの一部を引用して、写真やGoogle Steet Viewの画像、更には 透谷に関連した過去の(私が撮影したのではない)写真などと一緒に 並べること、更には、「訪問記録」というのでは全くなく、寧ろ 訪問とは別のリズムで、だが訪問も含めた透谷を巡る様々な水準での 探訪によって自分の心の中に浮かんだことを、折にふれて書き留めて、 更にそれもまた、他の記録とともに貼り混ぜて公開するという行為の 総体を指すものであるという点は、共通の了解があると考えています。 だから「考古学的」というのも、それらの総体に対する形容であると 考えます。ブログは巡礼の記録であると同時に、巡礼の行為の一部でも あるわけです。
その上で、これらの行為の総体が歴史学的でないと自分で感じる最大の 理由の方から行くと、歴史というのが基本的には「個人」、 取り換えのきかない個人というものを捨象してしまうからであると思います。 例えば文学史では、透谷が同時代や後世に与えた影響のみがもっぱら問題で、 引き継がれなかったものというのは重視されないことに加え、 透谷自身の個性、他ならぬ彼でなければ為し得ないことというのが 寧ろ排除されるように思われるからです。例えば、私は明治文学史一般という ものにはあまり関心がないし、その中で透谷が占める位置(実際には、軽視される どころか、過大評価との声があがるくらいに透谷は文学史では重要な位置を 占めるとされているのですが)にも関心がありません。
そして、こうした点に関しては、考古学は歴史学に比べて、更により一層 対象の匿名性が強いと感じられるが故に、特定の人間の跡を辿る作業に対して 考古学的という形容にひっかかったのだと思います。
例えば対象が自由民権運動とかであれば 違和感はないのでしょうが、ここでは透谷という個人があくまでも問題で、 しかも透谷が生きた時代に、その活動の意義が還元されつくされるとは 考えていない、寧ろそこに余剰を認めればこそ、それに1世紀以上の時空の 隔たりを介して応答しようとしているわけですから、「考古学」という形容は そぐわないものに感じられてしまったわけです。
けれども上記のように書きはしたものの、私の関心が、透谷が「後世に遺したもの」に あることは確かだし、透谷の時代と私の生きている今現在の間に通常想定される 連続的な流れというのを或る意味では無視して、これまで透谷が他人にどう 評価されてきたかに拠らず、私が彼から受け取れると感じるものを重視していると いう点は指摘していただいていて、「考古学的」というのは、その上での形容な わけですね。従ってそれは別の側面、例えば、現在との断絶の意識が前提と されている点への注目であるとしたらどうでしょうか?
私が文学史上の透谷の位置づけのようなものに関心がないのは、私が文学研究者ではなく、 透谷が遺したものの受容の歴史というのが私にとっては、少なくとも意識のレベルでは 自分の文脈とは言い難いという事情があること、それから、これは文学研究者に 対する批判というわけではなく、もしかしたら例外もあるのかも知れないけれど、 「文学」という既成のフレームの中に身を置いてしまってから眺めれば、 その時点で視界の外に零れ落ちてしまうものがあるだろうと思えること、 しかも透谷が「文学」というフレームが出来上がる前に活動した人であるという事情を 踏まえれば、彼の遺した可能性を虚心坦懐に測ろうと思えば、寧ろそうしたフレームは 評価の妨げになるように感じられるということが大きいと思います。
更に言えば、透谷が生きた環境、透谷の文章が書かれた背景・文脈というものを 突き止めることの意義を否定するつもりはないけれど、いくらそのようにして 過去の風景を再構築して、その中に透谷を位置づける作業をしたところで、 それが私が彼の遺したテキストに読み取る彼の姿とは一致しない。(私が過去に 赴くのではなく)そうした過去の風景から抜け出してきて、死んだ筈の透谷 (の幽霊)が、21世紀の現在の風景の中を逍遥し、能うことならば、自分自身を 霊媒のように透谷に憑依させて、透谷自身に語らせることができれば、 それは限りない価値のあることのように感じられるのです。
勿論これはある種比喩的な言い方で、実際に降霊術の如きものを実践しようと いうわけではない。だけれども、精神的なもの、観念的なもの、もっと現代風に言えば、 「情報」の記録、継承といった視点から眺めたものを事態に忠実に記述すると、 寧ろ、一見比喩に見える言い方の方が、現実を歪みなく記述しているといったことは ないだろうかとも思います。「飄遊は我が性なり」と私が言ったとき、もちろん 常にそうであるということではないけれど、或る特定の文脈では、それは私を介して、 私の中に住み着いた透谷の「魂」「精神」とでも呼ぶべき何かが言っているという 言い方の方が、事態に即した言い方なのではないだろうかと思うのです。そこでは 私は媒体であり、記録を再生する蓄音機の如きものに過ぎません。 (ところで透谷は、詩人というのはまさに蓄音機の如きものだと述べたのでは なかったでしょうか?蓄音機と化することは、それ自体、透谷の「精神」を 継承する在り方の一つではないでしょうか?)
一方で、透谷ゆかりの場所に足を運ぶこと、1世紀後のそこと、その周辺の風景を その中を自分が通過したことの証拠か痕跡であるかのように、写真にとって記録する ことを続けていること自体は、「巡礼」という言葉で呼ぶ他ない行為であって、 そこから何かが生じることが、少なくとも意識的には意図されているわけではありません。 それは強いて言えば、そうすること自体によって透谷という存在を記憶にとどめる、 自分の脳内だけではなく、自分にとって外部的な媒体に記録し、かつ公開することで 透谷という生物学的な死の後も生き続けている存在に応答し、応答自体を記録する ことで、応答する相手を記念し、継承することに与ることのみを目がけて為されている のだと思います。
少なくとも私自身、風景の中を歩いているときには、虚心に風景を眺めていて、 それが透谷が見た風景であるというのは、いわば行為の背景のレベルまで 退いてしまっている。風景の中を虚心に歩いていて、透谷その人に対して 語りかけるのではないとき、寧ろ私は、少しだけ透谷自身なのではないかという 気がします。
無色透明な風景というものは存在しません。風景は必ず、特定の認知の様式の 制限の中で捉えられたものに過ぎません。そのことは、「同一」の風景を異なる種の 生物が眺めたときのことを考えれば明らかでしょう。従って、透谷が遺した思考を 自分の内側に引き込んで、1世紀後の私にとっての現実の風景を眺めるとき、 その風景は、透谷の認識の様式を多少とも反映したもの、「透谷族」の生き物固有の 風景といって良いでしょう。(勿論、だからといって私が優越的にその族を 代表する個体であると主張するつもりは全くありませんが。)
他方、私がその中を逍遥する風景の中には、既に透谷以後の歴史の痕跡が 刻まれている点を見逃してはならないでしょう。 墓や記念碑は、透谷を記念し記憶するための媒体ですが、それゆえに、 それは透谷が現実には既に非在であることを告知・宣言するものでもあります。 勿論、生前に顕彰碑が作られるケースというのもあるでしょうが、その場合でも それは予め、「その人がかつて存在した」ということを証言するものなのでは ないでしょうか?
更に言えば、顕彰碑の「ここ」はそれが顕彰する対象の「今」の 「ここ」では原理的にありえません。顕彰碑が、かつての住居の跡地に建てられた ような場合では、「ここ」の方は成立しても「今」の方が成立しない。 従って、顕彰碑は対象の現前を否定する存在、不在を告げる存在なのです。 (それは痕跡一般の性質と言って良いのではないでしょうか?)にも関わらず、 そうした存在の媒介なしには、対象の現前の記憶は失われてしまい、 時空の隔たりを介した会話は不可能です。 墓や記念碑の前で透谷に語りかけるとき、私にとって透谷は既に不在の 他者なのだ、だが語りかけはそのような仕方でのみ可能だいうことは 言いうるでしょう。
かくして私が透谷の見ている風景を見ているか否かについて言えば、 寧ろ端的に「否」であり、そこに100年前の風景が見えるわけではありません。 もしそうしたければ、そうした過去の写真なり記録なりを参照すべきであって、 たとえそこが、透谷がかつて通過した、かつて滞留した「同じ場所」であったとしても、 そこを単純に訪れることで時間の隔たりを超えることはできないのは明らかだし、 その場所を訪れたからといって、透谷が遺した文章がよりよくわかるというものでもない。 寧ろ「仮想的」なものであるならば、現実の同じ場所など媒介することなしに、 透谷が見たもの、透谷の精神が住んだ場所に辿り着くことができるのではないかと思うし、 実際に、透谷研究者の多くは、まずは彼のテキストに対峙することを通して、そうした 仮想の場所を突き止めようと試みているのだと思います。
上述のように、一連の「巡礼」の行為には、過去の遺構の「発掘」という 意識は働いておらず、それゆえ指摘に驚いたわけですが、では改めて「巡礼」とは 何なのか、そこで「発掘」と呼ぶにふさわしい何かが生じるということはないのかと いうのは、その上で更に考えてみるべき問題であるように思います。
これは考古学ではなく、古生物学だけれども、古生代カンブリア紀中期の これまで知られていなかった系統の海棲動物の化石が大量に発見され、 発見された地層の名前を採って、バージェス動物群や澄江動物群と 呼ばれていたり、更に時代を遡って、先カンブリア時代の生物が やはり化石が発見された地層の名を採って、エディアカラ動物群と 呼ばれているのは良く知られていると思いますが、これらの生物の少なくとも 一部は、その後の生物との系統関係が不明のもので、生物の系統樹にあって、 進化の過程で絶滅してしまった喪われた側枝である可能性もあるようです。 そうした生物群の化石は、まさに「発掘」と呼ばれるに相応しい。 というのも、現在に至るまでの歴史の連続性の暗黙の想定を多かれ少なかれ 裏切るようなものだからであり、現在から遡行することが不可能な、 喪われた多様性の痕跡だからです。
けれども透谷の場合は、そうしたケースとは事情が異なると私は 感じています。私が透谷を発掘したわけでは全くなく、 透谷は彼自身の没後、私が存在する以前から既に或る仕方で存在してきた と言っていいだろうとも思います。私は寧ろ遅れてきたものですらあって、 逆に、透谷の時代と現在との間に広がる受容の織り成す森の中を 逍遥せずにいることは避けがたい。例えばそれは、逍遥する中においては、 透谷の死後に透谷を記念し、記憶するために設置された墓や記念碑の 存在が物語っていることでもあります。
しかもそれ以前に、私がどのように透谷を知ったかという点まで 遡ると、墓や記念碑そのものではなく、それらについての情報を含む 文字情報が媒体となっている。透谷自身の文章であれ、透谷についての文章であれ、 そうした文章が形成する仮想的な空間があって、その中で私は透谷の存在を知った わけです。(もちろん、このこと自体は透谷固有の事情というわけではなく、 一般にほとんどの場合がそうだろうと思いますが。)
透谷自身が一夕観において、物理的な世界と書物の世界を重ね合わせた観方を 既にしているわけですが、そのことを知るにつけ、より一層、透谷がかつて 住んでいた世界と私が今住んでいる世界の接点の大きさを感じもし、 生物学的な生死の視点ではなく、書物の世界、こう言い替えてよければ 「情報」の観点から見れば、透谷は寧ろ他のほとんどの人間にも増して 存続し続けているし、今後も存続し続けるだろうと思います。 ここでは今度は、発掘が含意するような時空の隔たりはなく、何かに埋もれ、 忘却の裡に沈んでいるわけではまったくない。仮想の観念の世界、情報の世界では、 仮に私が居なくても、透谷が存続し続けることは確実だし、寧ろ私よりも 透谷の方が遥かに生命力を備えていることになります。
一方、墓や記念碑のようなものは、原理的に透谷自身が見たことは有り得ず、 その点に関してだけ言えば、それは寧ろ、(歴史的な見方を拒絶しながらも) 透谷の記憶の継承の歴史が、露頭に出現した地層のように顔を出している (というのもそれは、やはり現在から見れば過去に属するものであり、 それは私以前に存在していたかも知れないし、時系列上先行していない場合は 私とは因果的に独立な過去にに生じたものなので)のを確認し、それを 再認し、再認したことを証言することで、間接的に透谷の記念をしているに 過ぎないのです。
しかし、これは逆説的なことだと思いますが、 その場所自体については現実の透谷は端的に非存在であるのだが、 にも関わらず、透谷に意識的に語りかける場所としては、寧ろそうした場所、 透谷自身の足跡ではなく、透谷がかつていたことを証言する他者が透谷を 記念した場所の方が寧ろふさわしいという状況があります。それは ある種の道標のようなもの、それ自体は透谷の痕跡であるわけではなく、 だがそれを辿ることで、透谷に到達することを容易にするものでなのです。 と同時に、道標は、過去に為された「巡礼」の行為の痕跡でもある。
「巡礼」という行為もまた、そのようにして先行する誰かが遺した 道標を手掛かりにして、その逍遥の跡を辿る行為であるという見方が 成り立つだろうと思います。「巡礼」行は、常に同じ場所への訪問の反復を 想定して行為であり、寧ろ新しい場所や新しい経路の追加といったような 新規性は積極的に除されているかも知れないのです。でも、それならばそうで、 最初の「巡礼」はどういうものだったのか、という問いが浮かび上がってきます。 「巡礼」というのは、自分の起源である最初の1回を消去することで 成り立っているのではないか?
にも関わらず、なおも「巡礼」は単なる反復ではないし、何度目かに 「発掘」される何かが存在しないわけではない。もちろんそうでなくては、 「巡礼」は機械的な反復ということになってしまいます。 実際には、繰り返される「巡礼」の一回一回は、あたかもある同一の作品の 「演奏」が都度異なる実現で、ある時には文字通りの「奇跡」が起きることもあれば、 何の感動も与えないということもあり得るのとパラレルなのではないでしょうか?
私は透谷は生物学的な死の後も、ずっと生き続けているという言い方をしました。 だけれども、これは不正確な言い方かも知れない。なぜならそこには 「場所」の限定が抜け落ちているからです。それは歴史が時間を連続したものと 暗黙裡に前提としているのと同じ楊に、空間を連続したもの、現実に透谷が 「出現」した此処と彼処が連結していてその間の往還が行えることを 暗黙裡に前提としているからです。でも実際には、時間が不連続であるように空間も不連続である、 というより局所的な世界が折り重なっていて、その世界の間の交通は 必ずしも保証されたものではないという描像の方が現実に即しては いないでしょうか?
人は知覚のアナロジー(それ自体が、事後的に構成された或る種の虚構であり、 必ずしも感覚器官の受容したものがそのまま意識されるわけではないということは 今や良く知られるようになりましたが)で、世界を時空連続体だと見做すように いわば回路づけられているのですが、実際にはあちこちに綻びや盲点があり、 あるいは補完がもたらす錯覚があり、それゆえ時折認識は破綻に直面します。 (ウィノグラード=フローレスの言う「ブレイクダウン」です。)
それだけではなく、直接的な知覚ではない、 観念や抽象的なオブジェクトが存在する抽象的・仮想的な空間さえも、物理的な 時空連続体のアナロジーによるイメージを抱きがちです。けれども実際の対象の構造に 寄り添った記述をすれば、それは知覚のアナロジーで漠然と思いられるような空間とは 全く異なった構造を持ち、そこでの時間の流れ方もまた、通常の了解とは全く異なった ものになるのではないでしょうか?更に現実というのも、視点と独立した、 ニュートラルで公共的な空間が先験的に存在しているわけはなく、 モナドのように孤立した個体の視点の布置の重ね合せによって定義される べきなのではないでしょうか?
例えば世界遺産として明治の産業遺構が次々と登録され、そこに連続するものとして 松下村塾が加えられたという話を聞きましたが、勿論それ自体に異議申立をしようと いうわけではなく、でもその話を聞いたときに反射的に思い浮かべたのは やはり透谷のことであり、常に「世の成り行き」というものが、透谷がそれに対して 異議申し立てをし、それにより損なわれるものを擁護しようとする「力(フォース)」 として働くのだなという印象を持ちました。
透谷のビジョンというのは勿論同時代においても理解されたとは言い難い。 例えば、透谷を後世に伝えるにあたり決定的な役割を果したことは間違いなく、 透谷の偉大さを必ずしも十分な見通しを以って正確に測定していたとは言えなくとも、 その深い動物的とでも言えるような直観によって感じ取り、しかもそのことを 伝えることに躊躇のなかった藤村ですら、透谷のある面を理解できなかったとは よく言われることです。そうした評価の妥当性は個別に吟味する必要があろうけれど、 私もまた、例えば透谷の持っている超越の志向については、藤村すら、やはり 感覚的に掴みかねたのではないかという気がしないでもないし、ましてや 一般的な評価ということになれば、同時代は勿論、その後も時代も、そして現在も、 透谷の居場所というのはなかなか見つけるのが困難なのではないかと思います。 勿論それは、理解しない側が悪いということではなく、透谷という存在の 在り様が、そもそもそうした理解とは途絶したものを始めから抱えていて、 現実の世界では、常に既に「幽霊的」な在り方しかできない仕組みになっている のではないかという気さえするのです。
透谷が見た風景は、時間の経過の中を潜り抜けて存続し続けた果てに 世界遺産として登録されたものの側にではなく、時間の経過の中で 消え去っていったものの側にある。透谷が価値を置いたものは、 現実の世界の中ではとるに足らぬもの、エフェメールな存在に 過ぎないもの、誰かが、「それはかつてここにあった」と 証言しなければ、そうした証言の連鎖がなければ、痕跡すら残らないような 儚いものの側にありました。彼を記念する場所では悉く、彼が かつて見た筈のものは残っておらず、ある場合には「かつてそこにあった」という 証言が辛うじて、例えば石碑として残り、別の場合にはその場所には最早何の 痕跡もなく、文書にアーカイブされた情報として、その場所と彼との 結びつきが記録されているばかりです。
寧ろ、現在の多摩の、東京の、小田原の風景の中をいくら経巡っても、 どこにも透谷はいないし、透谷の直接的な記憶も残っていないと いうべきではないでしょうか?歴史学的な探究の水準でも、透谷の足跡を 辿ることが如何に困難であったかは、例えば色川大吉さんの研究そのものが 雄弁に物語っています。辛うじて間接的な証言として残っている石碑の類もまた、 透谷の場合には、様々な理由で何度となくその所在を移動させられる 運命にありました。八王子市みつい台の「造化の碑」しかり、小田原文学館の 「顕彰碑」しかり。その場所すら、初めから透谷の記憶にとって固有のものでは なかったし、移動により固有性が回復されることはなく、寧ろ結びつきは 一層恣意的なものになりました。辛うじて石碑がそこにあるから、 そこが「巡礼」の対象となるのであって、それは所謂、由緒や由来の面では二次的・ 副次的な価値しかないと評価されかねない状況なのです。そこは透谷「固有」の場所 ではないのです。透谷の「場所」は最早、現実にはどこにも存在せず、 透谷以降の社会は(一部の、趨勢に抗して、「道標」を設えることに尽力した 人々を除けば、総じて)透谷の「場所」が抹消されるに任せてきたように 見えます。我が王国はこの世のものならず。生前既に現実に場を喪って、 仮想の、虚構の場に退いて戦うことを余儀なくされた透谷は、 既にその時点で(当時は例えば「高踏的」という言葉が 用いられたようですが、寧ろ端的に)「幽霊的」な存在でしかなかったようですが、 その後も遂に現実に場を持つことはなく、辛うじて幾つかの「道標」によって 現実の時空との接点を維持するにすぎず、その場所は専ら仮想的な、 想像上の場でしかないようです。そこへのアクセスは不確かなもので、 実際、私は自分の見ているものが、自分が恣意的に作り出した虚像では ないと断言する自信がありません。他の人はいざ知らず、私の「透谷巡礼」は その全体がまるまる妄想の産物であるかも知れないという懐疑を 振り払うことができないのです。
だが、だからこそ、それが「固有性」を帯びていなくても、寧ろ それゆえに記念するという行為が必要なのだし、記憶を更新するための 「巡礼」が必要なのだとは言えないでしょうか。
もちろん、透谷自身もそのことは十分に認識していました。 例えば彼は、当時流行の弱肉強食の俗流社会進化論に対して、 自分が「反逆」を企てていることを自覚していました。しかし、 彼の「反逆」は、実はもっとずっと先にまで辿り着くような射程を 持ったものでした。単なる皮相な流行の社会理論への異議申し立てなどではなく、 より根源的に、利己的な遺伝子の搬体たること運命づけられ、 有限の生命を持つように仕組まれているという宿命と、にも関わらず、 意識を備え、想像力により仮想の、虚構の世界を築き、自己とは異なる 外的な媒体に定着させることによって、自己の経験した「出来事」を、 自己の有限性を超えて継承する手段を手にした存在もであることの両面を 直感的に掴み取り、自己の宿命に対する「反逆」を企てたのです。
また、この問題について安易な推定は慎むべきだろうとは思いますが、 透谷が自ら生命を断ったことも、もしかしたら彼自身の意図をさえ超えて、 そうした「反逆」の最も決定的な実践という意味合いを読み取ることさえ 出来るように思えるのです。自己の想像力の無限の飛翔に賭けた彼は、 最早、生き物としての自分を或る種の「余分なもの」としか感じられなかった のではないか。彼の「我が事終れリ」という呟きは、自分の無力の 表明ではなく(実際彼は書けなくなったわけでは決してなかった)、 寧ろ、「反逆」に必要な「準備」を終えたことを、自分の使命をその時点で 既に尽くしたという認識を述べんとしたのではないか。 彼には最早「反逆」の、いわば最後の仕上げとでも呼ぶしかないものしか 残っていなかったのではないかという気さえするのです。
彼の「反逆」は物理的な意味では痕跡を残していないかも知れませんが、 その精神は決して損なわれていないし、ある抽象的な時空の中で、 それは生き続けていて、そうした不可視の時空の構造を介して、 現実のある場所に辿り着く道行こそが、「巡礼」の正体ではないのか、 それは現実の世界に経路を持っているわけではなく、寧ろ現実とは 辛うじて接点を持つに過ぎない、現実の背後にある仮想的な世界を 経路として、あたかも地下道を通って地上の、全く懸け離れた地点に 突然辿り着くようにして、現実の風景の中に降り立つのではないだろうかと 思えるのです。
私は、総体としての「巡礼」の中の、ある「逍遥」の時に、 ある谷戸で、尾根を辿る道なりにその奥に偶然降り立った瞬間の ことを思い浮かべています。そこには透谷の気配があるのではなく、 寧ろ、透谷が出遭ったものの気配があります。地形のせいで周囲から 切り離された谷戸の奥に只独り、降り注ぐ光の中に立ち、 染み出る湧き水の流れを確認することは、透谷の心の中の構造を 幻視するかのようであって、それは「瞬間の冥契」が生起する 精神的な領域の風景の模型のよう、湧き水と透明な光に包まれた 谷戸の奥の風景は、それ自体が透谷の心の構造の模型であるかのようです。
それはまだ数多くあり、多くの人々の丹精込めた管理によって維持されている 多くの谷戸でも同じように起きてもいい筈なのですが、こと私の場合には、 そこで起きた、しかも一度ならず2度までも、同じ谷戸の中でそれは 起きたのです。
2度目は時期を隔て、季節も異なって、今度は逆に谷戸の出口から奥へと 谷戸の中を遡っていきましたが、今後は自分が向かって行く先が、 そこに降り来たった何者かの気配の充溢する場であることを感じ取り、 一旦先に進めなくなってしまいました。西欧であれば、それは 牧神(パン)の到来による恐慌(パニック)として把握されたような 出来事かもしれません。勿論、その時の私に、過去に存在した他者である 透谷のことを思う余裕などあろうはずがありません。
私は谷戸のほぼ中央で、跪き、祈らずにはいられませんでした。 それは祈りとしか呼びようがないものですが、 具体的な何かを祈ったのではない、そんなゆとりさえなく、 自分を包み込む何かに対面していたというべきかも知れない。 そこは最早「言霊」の領域ですらなく、言葉は機能していなかったと 思います。強いて言えば、事後的に、それは透谷の言う「瞬間の冥契」に 類した何かではなかったかと思うのが精一杯で、そこで起きたことに ついて語ることができるとは思えません。その後私は立ち上がって、 谷戸の中をしばし逍遥しました。更にしばらくしてから、ようやく 谷戸の出口に向かって谷戸の中の小径を歩み始め、谷戸の出口に 差し掛かって、その何者かの気配の圏から抜け出たと感じたとき、 ようやく現実の世界に戻ってきたような感覚に囚われました。
そこを訪れ、そこに佇み、何者かが降りてきて、その場に臨在する気配を 感じることは、かつて存在した個体としての透谷ではなく、 個体の制約を超えた透谷の心の在り方、いわば「精神」とでも 呼ぶべきものに接することであり、そのパターンを同調的に感受することに 他ならないと感じられます。何者かに出遭う、その出遭いの様式を通じて、 自分が少しばかり透谷になるといっても良いかも知れません。
私は自分の経験を神秘化するつもりはありません。それは超常的な現象 などではなく、しばしば起こりうる意識の変性状態であったのだろうと 思います。そこには何の神秘もなく、超自然的な力などありません。 ただ、自分に起きたことを正確に記述しようとすると、自分の感じたことに 忠実な記述を心がけると、結果として、「そこに降り来たった何者かの気配」 といった言い方にならざるを得ない。それは確かに他なるもの、 私を超越した、私の現象世界の背後の何者かと言うほかないのです。 それは客観的に見れば、主観的な思い込みや妄想の類ということに なるであろうけれど、谷戸の奥で私が見たもの、感じたものの 様態は、そのようにしか記述できない、そしてそれは、おそらくは、 透谷が文章に残した精神の脈動のパターン抜きでは そのようなものでなかったであろうことも否定できない事実なのです。
そしてそれは確かに、過去に存在したあるパターンを仮想的な場において 「発掘」することと見做すことができるかも知れません。 それは、現実の歴史的脈絡や空間的な脈絡を経由するのではなく、 寧ろ何かのはずみで出現した露頭に見られる過去の地層の中に、 直接は継承が途絶えているかも知れない過去の生命の痕跡を 発見することに近いかも知れないと思います。私は透谷を、ではなく、 透谷の会った何者かでもなく、透谷が遭遇した「出来事」を 「発掘」したのだと言えるのかも知れないと思うのです。 そしてそれこそが「巡礼」という行為に相応しいことであると。
更には、事態に即した言い方をすれば、寧ろこう言うべきなのかも 知れません。「透谷」とは、そうした「出来事」が生起する場の 名であり、一見すると良く似た地形の他の場所では、だが 「出来事」は起きず、一方でそこでは訪れるたびに一度ならず、 かつ、今なお、何物かが到来するような場所の名なのだ、と。 風景の中に透谷を発見するのではなく、風景そのものが、 透谷という精神の固有の地形が織り成す景観なのだ、と。
(2015.5.16 公開, 2024.9.24 noteにて公開)