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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(15)
15.
「狭き門」は「アンドレ・ワルテルの手記」のいわば書き直しである。「田園交響楽」で回帰することになる2つの手帖(ただし「田園交響楽」がしばしば指摘される第一の手帖のみならず第二の手帖も含めて偽装された物語なのに対して、ここでは物語は背景に退いて直接 語られることはなく、物語の登場人物の主観的な反応の記録たる独白や膨大な引用を介して浮かび上がってくるように仕組まれているのだが)に対して、「狭き門」の特質は回想=物語が直接語られること、にも関わらず末尾にアリサの日記が置かれることで、まるで推理小説の探偵による謎解きの部分や法廷物における検事や弁護士の陳述のように、別の声で同じ物語が別様に語られる、しかも両方ともに物語としてではなく、一方は日記という異なる形式で複層化が図られている点にあるだろう。 「狭き門」に比べると、後続の物語は寧ろ「手記」や「背徳者」のモノローグに逆戻りしているかのようだ。
だが何故、もう一度語るのか。そして二度と語らなかったのか?(その後は回想や日記、自伝という形態を専ら採用し、物語的虚構を拒否している。勿論それが「事実」を語ることに繋がるわけではないのだが。)しばしば言われるのは、「アンドレ・ワルテルの手記」では主人公が狂気に陥り死んでいくのに対して、「狭き門」ではアリサが死んで主人公は生き残るという比較だが、実際にはこれはあまりに乱暴で粗雑な要約だ。「アンドレ・ワルテルの手記」においてもエマニュエルは主人公より前に死んでいる。寧ろ違いは、「アンドレ・ワルテルの手記」では母のいわば遺言でエマニュエルが他人に嫁ぐことになったのに対して、「狭き門」では母の死を契機として主人公が婚約を申し込むのをアリサが拒んだという点にある。
ところで、現実には「アンドレ・ワルテルの手記」自体がマドレーヌの婚約拒否の原因となったのはジッドの母が没する前のことであり、「アンドレ・ワルテルの手記」におけるように、彼らの結婚に反対していたらしいジッドの母の死を契機として、マドレーヌはジッドの求婚を受け入れて結婚をしている。「狭き門」はマドレーヌを妻として娶った後で書かれているのである。何故、そうしたタイミングでもう一度 「アンドレ・ワルテルの手記」の書き直しをしたのか?同じインターテクスチュアリテイが生み出す精神的な圏に還帰したのか? 物語においてジッドが意図したテーマを巡っての解説よりも、こうした点についての解説が欲しいところだが、そんなことには興味がないようだ。
「アンドレ・ワルテルの手記」と「狭き門」に共通するのは、そのいずれもが強い衝動によって、自己中心的な動機に基づいて物語が書かれていること、少なくともそう宣言されていることだ。ここでは(社会を含めた)他者に対するプロテストいったものはない。逆説的だが、 それゆえにこそ寧ろそれは、自分の経験を永遠に定着させるための投壜通信に近いのだ。
その一方で、「アンドレ・ワルテルの手記」と「狭き門」には決定的な違いがあることに留意すべきだ。そしてこの違いは、 芸術的な完成度と相俟って「狭き門」をまさに真の投壜通信たらしめているのだ。
単純に言えば、「アンドレ・ワルテルの手記」が膨大な引用の集積からなっていたとしても、それはある自意識の周囲に取り集められたものに過ぎず、ここには「対話」がないのに対して、「狭き門」は二声の対位法になっている点、 つまり同じ出来事を二人の視線で、しかも一方は物語のかたちで、一方は日記のかたちで、前者が後者をいわば ドキュメントとして抱え込む構造になっている点であろう。そしてこのことは、アリサの自己犠牲が、アンドレ・ワルテルの 内向と狂気とも、背徳者の自己中心的な快楽の瞬間への耽溺とも異なり、それが出発点としては観念的なものであったとしても、極めて実践的なものであること、その一方でジェロームの側もまた、アリサが日記を破棄しなかったことへの応答のように、アリサの物語を書きとめることによって、更なる他者である読者への投壜通信を行おうとしたこと、つまり 「アンドレ・ワルテルの手記」では手記と作品(「アラン」)といういずれも自己意識の運動の産物であるものの間の選択でしかなかった投壜通信への衝動が、「狭き門」では自分自身というよりはまずはアリサという他者のためのものであることと対応しているのである。ジェロームの物語は(遅すぎた)アリサへの応答なのだ。
作者ジッドはこれを或る種の批判として書いたと述べたそうだが、この作品が他の作品と比べてなお一層、イロニーの トーンから逃れているとすれば、そうしたジッドの意図に反して、ジッドは密かに、そうした論理においては天秤の一方に 過ぎないはずの、こちらの側に優越を認めていたからなのだろう。寧ろ、天秤の逆側に振れることができたのは、 こちら側に重心があったから、反対側への運動が行き詰まり、窒息し、枯渇したときに、こちら側が渇きを癒し、 作品を生み出す、いわゆる「霊感」の泉であったからなのだ。そうした運動は、「狭き門」を中心とした前後に 反対側の頂点が来ていることからも裏付けられる。(そういう意味では「田園交響楽」の圧縮と、特に第2の手帖に おける翳の存在は、真の小説を企図した「贋金づくり」の価値論的にも混乱した、混沌とした広がりに対応している。 「田園交響楽」でいわば戻りそこなって、「背徳者」と「狭き門」の統合をしてしまった彼は、その後はもはやこちら側の泉に 創作の上ではもどることがない。それは衝動が尽きてしまったから、つまりこちら側の泉を「田園交響楽」で汲み尽くしてしまったからなのだ。その結果、作家としてのジッドは終わってしまう。後期のレシの三部作は、今度は「贋金づくり」の 混沌の色褪せた残影をレシの連作のかたちに定着させたものに過ぎないし、それは実際には未完で放棄されてしまう。)
勿論そのことは、ジッドが「狭き門」において、自らの実験の結果を登場人物に押し付けて、彼らを犠牲とすることで、 まるでカタルシスを得るかのように、自分はその結果を引き受けることがなかった、その無責任と無関係ではない。 自己批判であったとして、それを物語の形で行うことで、ジッド自身はいわば「悪魔祓い」をしたようなものなのだ。 だが、そういうジッド自身が省みられなくなっても、アリサの方は永遠の生命を得ることになる。それは虚構の中でであれ、 アリサが自分の選択の結果を自ら最後まで引き受けたからだし、作者のジッドがとうとう逃れられなかった、それを他人に見せびらかしたりする露悪趣味から自由であったからでもある。しかもそれは、いわゆる「芸術の否定」にさえ至っていることに留意しよう。回心したパスカルすら、まだその懐疑ゆえに批判を免れない。ピアノの演奏を捨て、 滋味豊かな文学を捨て、無味乾燥な説教集を選択する彼女の行為は、宗教的回心が芸術の放棄に繋がるものでありうることを示している。それは到底ジッド自身が受け容れることができる結論ではなかったから、ジッドはそれを アリサに押し付けて、自分は物語る側に回り、しかも自己批判の身ぶりすら忘れることがないが、そうした自意識の小賢しさを作品自体が、登場人物の形象そのものが上回ってしまう。ジェロームに託した語りの衝動、それも作品として「でっちあげる」 ことへの拒絶を含んでいるのだが、ここではそうした衝動が一度きり、作品の芸術性と両立しているのだ。まるで、シュティフターの決意を引き継ぐように、ここには純粋でないものの入り込む余地がほとんどない。ジッドの批判的な意図に反して、 この作品は、シュティフターの小説の主人公の克己と諦観とに隣り合うかのようだ。例えばアンリ・デュパルクの回心の経験にも 比すべきものがここにはある。アリサ自身は決して物語作者にはならない。ジェロームは、晩年のブレンターノのように聖女の言行を記録する係を引き受ける。ジッドの作品は一見したところの雰囲気に相違して、宗教的な深みに欠ける という批判をしばしば受けるようだが、こと「狭き門」についていえば、ヴェーベルンの作品がそうであるように、既成の宗教からは 自由であるけれども、にも関わらず宗教的としかいえないものがきちんと存在している。つまり、ここには超越的なものへの眼差しがあり、「今から主のうちにあって死するものは幸いである」という認識がある。マーラーの宗教性をリルケのそれと同様、 紛い物、装飾に過ぎないと断罪したのはハンス・マイヤーだったが、それと似た事情があるのだろう。だが、アドルノの言う 「救い主の危険」は、こうした紛い物めいたものの裡にこそ見出されるものかも知れないのだ。「狭き門」には、真の小説を名乗る 「贋金づくり」やそれに準ずるソチ「法王庁の抜け穴」には実際には欠けている、本当の意味でのポリフォニーがあり、それと相関して、レヴィナス的な意味での絶対的他者がいて、超越への、無限への眼差しが宿っているのだ。そしてそれが一度限り、 芸術的な文体を持つ物語として語られている。ジェロームの語りの衝動は、ジッド自身の語りの衝動と二重になり、「背徳者」にもない、「田園交響楽」にもない、だが「アンドレ・ワルテルの手記」にもない「終り」がここでは時間論的に可能になっている。それら3作品の結末は語りの現在の状況の地獄を示しているが、「狭き門」のみは真の物語に相応しく、 物語られた内容を絶対的な過去として回顧する視点が存在する。そうした差異を軽んじて、(ジッド自身がしたように) この作品を他の物語と同列に扱い、ただ批判される対象のみ入れ替わっただけだという見解は、作者ジッドには忠実だが、 作品自体に対しては不当なものなのだ。