ハゲマス会「第11回狂言の会」を観て
「宝の槌」山本東次郎・山本則秀・山本則重
「寝音曲」山本則直・山本則俊
小舞「鵜の鳥」山本則秀
小舞「通円」山本則重
「釣針」山本則俊・山本則重・水木武郎・遠藤博義・山本修三郎・平田悦生・加藤孝典・鍋田和宣・山本則秀
麻生文化センターでのハゲマス会主催の大蔵流山本家による狂言の会に足を運ぶのはここ数年の恒例となっていたのだが、 昨年は熱を出して寝込んだために記念すべき第10回を拝見しそこなってしまっていた。そのかわりに昨年は秋に 杉並の舞台に足を運んで「山本会」を拝見し、感銘を新たにしたこともあり、第11回は再び是非とも拝見を、ということで 1月18日に会場に足を運んだ。番組は「宝の槌」、「寝音曲」、「釣針」に、小舞「鵜の鳥」「通円」。今年も仕事の忙しさは 去年と変わらずで、折角の感銘深い舞台の感想を文章にする時間もままならないのが残念だが、とにかく印象に残ったこと だけでも以下に記しておきたい。
最初の「宝の槌」は、例えば一昨年に拝見した「粟田口」などと構造は全く一緒なのに、結末は全く異なるし、 全篇を通じた雰囲気も全く異なった味わいの作品と受け止めた。勿論それは東次郎さんの一貫し、徹底した 解釈が打ち出されていればこそなのであろう。都の売り手が見事に語った「宝の槌」の由来を主に向かって、 そっくりそのまま意気揚々と繰り返して見せる太郎冠者の語りの見事さは、山本家ならではの高度な様式性に 裏打ちされたものに違いない。東次郎さんの解釈が面目躍如なのは、その後、槌を振っても何も出てくることが ないことをはっきりと覚った後の太郎冠者の反応である。まるで槌なしでも自分の言葉の力で問題が解決 できるかのように、主に向かって言葉を放てばあれ不思議、舞台は丸く収まってあっけない幕切れとなる。 勿論主も内心どこかでそれを望んでいたというような穿った見方も可能かも知れないが、実際の味わいは まるで太郎冠者の言葉が魔法の呪文のように利いてしまったという感覚に近い。勿論、その魔法は 見所にもかけられたのであり、見所はあっけにとられて退場を見送ることになる。
「寝音曲」は則直さん、則俊さんのお二人による圧巻の舞台。いつものことだがこの一番でも充分過ぎるくらいの 充実で、上演後、拍手をしながら思わず感激のあまり涙が出そうになる。毎度同じ形容で本当に申し訳ないのだが、 とにかくそれは音楽的といっていいような快いリズムを備えていて、おかしみもまたそうしたリズムの中から自然と 浮び上がってくるものであって、些かも作為が感じられない。だが何よりも、それと同時に太郎冠者と主の間の気心の知れた 信頼関係が感じ取れるのが感動的である。主が太郎冠者に酒を勧めるのを三度繰り返すところのこれまた音楽的な 繰り返しの妙は、同時に息の合った両者の関係を巧まず提示しているように思われる。 太郎冠者が謡を披露するのを躊躇うのは勿論それなりの理由もあって、それはそれで本心なのだろうが、それと同時に酒を勧められ、 膝枕をしてもらいという主の反応をどこかでわかっていて、結局いつかは謡を披露してもいいかとも思っているに違いないのだし、 主の方もまた、太郎冠者の反応を読んでいて、要するにお互いちょっとしたゲームに興じているような打ち解けて寛いだ雰囲気が漂う。 最後の追い込みもまたそうしたゲームの結末であって、見る人は寧ろそこに二人の付き合いの長さと信頼の絆の 深さを感じるのである。
今回の小舞は則秀さん、則重さんのお二人による「鵜の鳥」と「通円」。どちらも素晴らしかったが、個人的には とにかくも是非拝見したいと思っていた「通円」をとうとう拝見できて感激だった。 ご承知の通り「通円」は「頼政」のかなり徹底したパロディなのだが、それゆえ謡と 舞の技量の支えがなければおかしさが生じて来よう筈がない。修羅能でありながらどこかに不思議な軽みをもった 「頼政」の、そうした微妙なバランスを巧みに利用して作品が成り立っているゆえ、洒脱さがそこに同居できる型の剛直さが要求され、 その中にユーモアが滲み出る型の美しさがなくてはならず、そういう意味でこの曲こそ山本家向きに違いないと思っていたのだが、 最近めざましい充実ぶりを拝見するたびに感じる則重さんが東次郎さん、則直さん、則俊さんの謡で舞う小舞によってそれが圧倒的な 説得力を伴って確認できたことに感銘を受けた。団扇、柄杓、茶筅、茶碗といった小道具の扱いも見事で、今度は是非 狂言全曲を拝見したいと思う。
「釣針」は登場人物が多くてどたばたした感じのある曲だが、私が印象的に感じたのは寧ろこの曲が備えている 祝言性のようなものだった。勿論山本家の狂言がいつもそうであるように、この曲も色々な見方が可能だろうが、 釣り上げたおはしたの集団に追い回される太郎冠者の姿にすら、私は寧ろ或る種の豊かさ、おおらかさのようなものを 感じずにはいられなかった。そうした印象を形作るベースの一つにあるように思われたのは則俊さんの釣る前の祈祷の 所作の美しさで、休憩を挟みつつとはいいながら、「寝音曲」、小舞の謡とそれまで出ずっぱりであることを 思えば驚異的なことに思われる。更には一人目のおはしたの被きを取ったときの驚きの型の美しさと、その間合い。 恐らくはこの作品の劇的な頂点はそこにあるのだが、その頂点の鮮やかさが、その後を品の無いどたばたにすることを見事に 封じているに違いないのである。その一方でさっさと立ち去ってしまう主がおごうを背負うさまもまた微笑ましい。 そして私にはそうした主と太郎冠者の間にコントラストよりも寧ろ、違いはあるものの同じ微笑ましさの変奏の方を より強く感じたのである。
終演後には恒例の東次郎さんのお話に更に加えて「福の神」の結びの部分が演じられるサプライズもあって、いつも以上に 盛り上がり、充実した公演であったと思う。
(2009.1.21 公開, 2024.10.8 noteにて公開)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?