マーラーの音楽の特性を巡る覚書
行進曲、カッコウの鳴き声、ファンファーレ、聖歌は記号として、そしてそれ以上に文脈を引き込むものとしてアトラクタの様なものとして、存在する。単なる記号ではないのは、それが実際に行進、野原、祈りという「内容」を形作るからで、単に~をあらわす記号、~というものをピンで留めている訳ではないからだ。
それは多分、音楽の「意味」といってしまって良い。意味の領野が成立しうる様な音楽、自我の音楽。 意味は目的であったり、方向であったりしなくても良い。意味と前意味のあわい、記号の持つ意味とは異なった。 だが、単純な感覚質に比べたらはるかに構造化されたものの構造。
それは創作の極における形式への批判的取り組みや、調性についての批判的な見直しでは直接にはない。それらもまた、実現された音楽のうちに刻印されていなければ、単なる作者の意図と言う名の素材に過ぎない。
音楽的な経過を言語による物語に「翻訳」してしまうこと。近似的変換として、あっても良いが、しかし、それでは恣意性が高すぎる(もっとも、劇音楽における描写のように、そのような翻訳がなされるべきであることも、正解が存在することもあるだろうが。) また、或る種の分析のように、結局のところ「~的」という特徴のリスト(しかもしばしば驚くほど短いものでありうる。)に還元することにしかならない分析もまた、不毛であろう。そうしたリストは―それが数十から数百にもなれば、そして測度が適切に入るならば、有効なものになりうる可能性だってあるのだが―一般には、印象批評と結果だけ見れば変わるところはない。
それでは音楽的時間の擬人化についてはどうか。音楽はオブジェだから、根源的時間そのものではありえない。擬人化の由来は、音楽に対するTriebの結果だという主張は?音楽的時間の「理想化」、人間に―日常的時間に―喪われた時間の意味を返してくれる擬似根源的な時間?
多分、擬人化は正しい。だが理由は安直に一般化できない。それは享受の極で(そして恐らく自我の音楽なら、創作の極でも)行われうる、或る種の代償行動(現実には実現可能でないことをfictionの中で実現することで満足を得るといった類の説明)に還元してしまうことになる。 それが全く無とは言わないまでも、それは起こりうる事態のほんの一部でしかないだろう。そもそも人は、そのように音楽に出会うとは限らないし、仮にそれに現実を代替する機能を認めたとして、その代替は必ずしも代償として機能する訳ではない。
そもそもその光景は初めて聴き入る子供にとって未聴のものであるかも知れないではないか、、、(アドルノがマーラー論で語っているあの経験を参照せよ。)
また近代音楽の批判、現代音楽の近代音楽に対する批判的機能についても留保が必要だ。確かに現代音楽は、自明性の前提を崩すから、批判的な機能は持ちうる。だが、それが近代音楽の持ちえた豊かさと同等のものを保証するわけでも、それ替わる、それに釣り合う別の何かを自動的に保証するわけではない。 (だいたい、ここでいう批判の機能は、近代音楽であるマーラーの音楽が、その時代に持ちえた機能と何ら変わることはないではないか?本当に、近代と現代の対比は意味を持つのか?ここでいう批判の機能は、或る種の音楽が時代を問わずに持ちえる、などということは考えられないのか?近代批判を近代に無批判にのっかってやっていることにはならないだろうか?)そもそも、その批判は人を「音楽ではないもの」に向かわせる可能性だってある。それはそれでも構わない。だが、これはまた、一つのイデオロギーに過ぎない。
不思議なのは、もし「世の成り行き」との葛藤がなかったとして、あるいはそこから逃避したとして、そこで表現するものがまだ残っているという事だ。―勿論、理想的な、あるいは理念的な秩序、法則性を、世の成り行きから抽象して表現する、ということがあるのかも知れない。例えばそれが「自然」であったりする、、、逃避の対象が実現される当のものである、という循環は、どこにでもあるようだ。一方で、作曲家はやはり音という素材に向き合うという側面がやはりあるようだ。構築するにせよ、構築することを拒んで、寧ろ「見つける」という姿勢をとる(cf.Feldmanの場合がわかりやすい)にせよ、音に対峙するという位相、表現云々の問題以前に、素材として目の前に音がある、という側面が在る様だ。特に「世の成り行き」から身をひいた音楽の場合には、そういう契機があらわになるようだ。―例えばオペラのために脚本に音楽をつけるという場合と異なって―「何のために」が与件として存在するわけではない。音を手段として、表現する何かがあるわけでもない。そういった意味合いでは、それが「世の成り行き」から強いられた―注文による―のではないとはいえ、マーラーの場合には「何のために」は、多くの場合、暗黙の与件だったように思われる。―つまり、世界を包含することがそれだ。音楽は「手段」である、という意識があった。ところが「現代音楽」の場合、音楽は手段ではなく、それ自体、目的のようだ。だが、それはやはり危ういものではないか?
そもそも語りの衝動はどこから来るのか?そして聴取の衝動は?―これは「まずは」心理学的な問題だろう。現代音楽こそ、「世の成り行き」からの逃避ではないか?と疑ってみることは不当なことだろうか。あるいは、さまざまな逃避のかたちだけではないのか?、と。音の聴取そのものを問うラディカリズムもまた、「世の成り行き」との関わりからすれば、ある種の逃避、疎外の果ての姿ではないのか?
だとしたら、単純に、近代音楽を批判することはできないし、マーラーのようなあり方(「世の成り行き」との関わりに満ちている)を、時代遅れといって批判するのは見当はずれだ。
別に「現代音楽」が聴き手から遊離していることを問題にしているのではない。音に対する姿勢へのこだわりという位相に自明の事として―あるいは積極的にラディカルな立場と自分で思い込んで―住まうこと、それが寧ろ逃避の極限として、だから対立するものというよりは寧ろ、同じもののより徹底された姿として映るということだ。そこには、セリエリズムか、それの否定かという区別は大して意味をもたらさない。音に対するつきつめが、どのような社会的条件のもとで可能になるのか、あるいはどういった心理的機制のもとで生じるのか。(セリエリズムに疲れ、音を聴くことを選んだシェルシを思い浮かべても良いだろう。あるいは―全く別の事例として、ティンティナブリに至ったペルトを考えても良いだろう。一方の極として、FeldmanやCageのようなアメリカの、アメリカならではの実験的なスタンスを考えても良い。)
一方、例えばマーラーにおける世界の暴力的な相貌は、自我の、主体の側の態度のエコーではないのか? マーラーの場合は、世界は、彼が世界に対して暴力的な分だけ暴力的なのではないか?と疑ってみることもまた、可能だろう。 (だが多分、これは言いすぎだ。常に世界の方が主体より強く、主体は敗北するのだから。)
「うた」の問題はマーラーの歌曲において躓きの石となる。本来「うた」は主体の側にあるはずだからだ。そして、「うた」はバルビローリの演奏の特徴でもある。結局、 マーラーの場合は「うた」の優位は一貫しているといって良い。マーラーの場合、主観が没落するのは、「うた」の圏内でなのだ。だからバルビローリは多分正しい。実際に世界との関係は破綻しない。破綻は楽曲においても表現の対象だ。破綻は形成自体には起こらない。破綻が形式化される。カオスや相転移が記述されるように。そして暴力に満ちた客観ということでいけば、マーラーとXenakisの距離を考える必要がある。そこには法則がある。だが、主体は安全ではない。 ―まるでその都度賭けが行われているかのようだ。「世の成り行き」に対する「別の仕方で」の関わりとして、Xenakisを考えることができるだろう。
いずれにしても、音楽を聴くとき、何が起こっているのか、音楽の個性とは何かを、具体的な事象に対する具体的なモデルによって記述することは、全く手付かずで残っている。でもだからといって形而上学的な時間論に耽っていて良いということにはならない。 様々な時間論を渉猟して博学をひけらかしたり、レトリックを連ねて気の利いたことを言ったところで、実質的には何も進まない。 (そもそも「音楽的時間」という切り出し方そのものがすでに抽象的だ。重要なのは個別の時間の分析なのに。) 単純化も不可能だ。それはマーラーのような極めて多くの文脈の上で成り立ち、それ自体が複雑な脈略を持つような音楽の説明になりうる保証がない。 勿論認知的なモデルを作ること自体は必要だが、一般的なモデルで十分だというわけではないだろう。
例えばマーラーの場合なら、「世の成り行き」との関係の転送とか感受の伝達というのを想定することができるだろう。
だがそれは、どこで起きたのか、本当に創作の極で起きたのか?(何も起きなかったということはあるまい。)いずれにせよ、「作品」には刻印されている。(ところで、作品についてはLevinasのoeuvreの概念を参照せよ。)世の成り行きから身を離すこともできる。しかも色々な仕方で。勿論、身を浸すこともできる。(オペラの作曲を考えてみれば良い。ドニゼッティのように良心的に注文に応じて音楽を量産しつづけた人もいるのだ。)マーラーが興味深いのはその「世の成り行き」との関係の作品上の表われだろう。そして件の不変項、取り出されるべき構造には勿論、この「世の成り行きとの関係」が捉えられているべきである。世界と自我の関係といい、意識の音楽といい、そのような言語で記述しようとしてきた側面こそ、取り出さなくてはならない当のものだ。
脳の可塑性、文化の相対性からいっても「自我」というのは普遍的なものではありえない。それは、ある文明の、ある歴史的エポックに固有の、ある組織化の様態なのだ。だが、それを認めたところで、ここでの問題は変わらない。何も一般的な図式、普遍的な構造が手に入れたい訳ではないので。
ここでの目標は、物理学のそれに近いといって良い。雲や水流のような現象の記述と同じような姿勢で、音楽、しかも個別の、外延が定義された音楽についての記述を探求するのが課題なのだ。文化的な対象について、一般的な学を構想すると、途端に対象の範囲の曖昧さが出現して、それに足をとられてページ数を費やすことが多いが、ここでは、まずは対象は比較的良く定義されている。(それでも版の問題や未完成のXの問題等もあるが。)
クオリアというのは狭義の感覚質を指してしまう様で、些か問題がある。音楽が惹き起こすのはより身体的、情態的な反応だ。そうした反応パターンを含めて質を考えてやる必要がある。クオリアを、音響を聴覚で知覚することに限定するのは、多分抽象なのだ。そもそも喜び悲しみetc.というのは、狭義のクオリアとは別の、身体的、生理的な反応だ。だが問題は、音楽を聴く、特にマーラーのような音楽を聴くということが、あるレベルで何であるかを示すことだ。音楽が「思想」を表すことは可能か?何か法則性を表すことができるだろうか?(法則に従うこととは別だ。)音楽が、何かを伝達するという言い方がされる。けれどもここでは、送り手、受け手は必ずしも明らかではない。 恐らく音楽は、言葉を使ってのように思想を表すことはない。(あくまでマーラーの場合は) だが直接に、何か感受の様式を、ある情態性を、転送する。あるいは聴き手の裡に構成することを可能にする。 感受の伝達の媒体なのだ。 例えば、音楽外のある出来事の経験をしたとき、その経験の構造、感受の様式のあるパターンがある音楽によって構成されたものに近い、ということはあるだろう。 自我の形成期に音楽を聴くことによって、脳内にあるパターンが形成されると、それが音楽外の経験をしたときにアトラクタとして働く、ということは大いにありえそうだ。 勿論、新たなパターンが作られることの方が多いだろうし、音楽の作るパターン自体も、安定したものであり続けるわけではないだろう。 だが、そうした経験の空間の形成の初期条件、canalizationとして、ある他者(=マーラー)の感受の伝達の結果が用いられるというのはあるだろう。 逆にショスタコーヴィチのように、後から、自己の経験の対応パターンを音楽の聴取に見出すこともある。
さまざまな音楽。ある個体の受容についていうのであれば、いつその音楽に出会ったのか? 音楽には言語における母語と第2言語の習得のような差異はないのだろうか? 新しい音楽、異なるタイプの音楽に出会い、その仕組みを理解し、そこから何かを学ぶことはできる。 だが、それを表現の媒体とすることについてはどうだろうか?あるいは表現されたものを受容するという過程については?
一方で、可塑性を信頼する立場もある。何歳になったら言語の習得が困難になるのか、 母語・第2言語の差異というのは結局、一般には程度の問題ではないか(私の場合はそうではないが) 母語以外を表現の媒体とすることだって可能ではないか、と考えることもできる。
その一方で、あるシステムが他のシステムよりも合理的で強力だ、ということはないだろうか。 そうだとしたら、これはどちらを先に受容して、内部のネットワークを形成したか、という問題ではない。 今度は可塑性が力を発揮する。そして、あるシステムはその可塑性をより発揮させやすいシステムを持っている、etc. あるいは、作品を作る仕組みとして強力であるがゆえに、より力を持つ作品が作られやすい。 ある文脈、ある目的のためでない音楽、というのが可能なこと自体、そのシステムの強力さを表していないか?
勿論、ある個体がそうした強力なシステムを受け容れるか、拒絶するかは別の問題だ。
(2006.9, 2024.6.30 noteにて公開)