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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(20)

20.

百歩譲って、ジッドにおいてはいわば定跡のような伝記的事実との対照を取り上げてみても、構図はあまり変わらない。アリサはジッドの従姉で 妻となったマドレーヌ・ロンドーがモデルであるとされるし、マドレーヌの日記が実際に作品執筆にあたって参照された事実もあるようだ。 だが、結婚を拒まずに受け容れたマドレーヌは「幸福」を手に入れただろうか?ジッドはそういう認識をもってこの物語を書いたのか? 他の作品との関連でいけば、別の可能世界でジェロームと結婚したアリサは、後に「田園交響楽」のアメリーとなるのではないか。 伝記的事実に依拠するならば、それはどちらも同じマドレーヌなのだ。結局のところ、ジッドの伝記的現実、マドレーヌのことをここで考えても 仕方ないのだ。それは田園交響楽での変わり果てたアメリーに現実のマドレーヌを見てとろうとすることが無意味なのと変わるところがない。 アリサがジッドの真情の側に寧ろ近かったのかも知れないというのはあり得ることだ。ただしそれはアリサにジッドが似ているということでは 全くない。アリサにあってジッドに決定的に欠けているものがあるのは確実だし、寧ろアリサは、その後のジッドに対しても根源的な 批判者であり続けたのだ。だからそれは、ジッド自身のマドレーヌに対する言語道断なコメント、「狭き門」執筆当時の彼女は未だ アリサたりえなかったのが、事実が芸術を追うようにして、その後アリサのようになっていたのだといった類の主張を正当化することは 決してなりようがない。ジッドがそう望んだとしても、アリサとアメリーを同一視することは、アリサの志向の備えている強度を決定的に 損なうことになり、それはジッドが実生活においては到達できなかったにも関わらず、芸術においては辛うじて垣間見ることが出来、 定着させることができたものを破壊してしまう。ジッドに抗して、寧ろマドレーヌがアリサとならなかったが故に、アメリーが出現したのだと言わねば ならない。要するにここで問題にしたいのは、伝記的事実の側において本当はどうであったかではなく、時としてある作品は、作者の意図を裏切る、 しかも良い意味で裏切り、作者がその後自分自身は辿れなくなってしまった場所を、作者を超えて指し示し続けることがあるということである。 寧ろジッド自身に抗して、アリサは読者に対して独自の生命を持ち続けているのだと言うべきなのだ。

結局のところ、ここで幾つか参照した類の解釈というのは、一見したところ作者の意図に裏付けられ、読み過されやすい部分に注意を怠らない細心さと 緻密さを誇っているようでいて、作品自体が(場合よっては作者自身の意図をも超えている可能性すら否定できないが)提示している人物の心の軌跡を 蔑ろにすることによってしか成り立っていない。とりわけても、アリサの心情に対する粗雑で一面的な理解によるものでしかない。参照されたアリサの日記の 後続の部分でのアリサの葛藤を全く受け止めていないのだ。アリサが父にかつての母親を思い起こさせた時、アリサを苦しめたものを彼女自身はきちんと 把握していたことはこの上もなく明白なのに、寧ろ、その出来事がアリサの心をある軌道に明確に導く決定的な契機になったことが、前後の文脈から 明らかなのに、何故それを無視して、上述のような解釈のための素材として引用を行うのか。

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