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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(23)

23.

ジッドは、医師マルタンにこうした文脈を、"Ne t’en souviens-tu pas ? Du temps que nous faisions ensemble notre philosophie, nos professeurs, à propos de Condillac et de sa statue animée, nous entretenaient déjà d’un cas analogue à celui-ci…"  などと一言で済まさせてしまうように仕組むのであれば、せめてその内容の、思弁はおいても、実証的な事実だけでも 踏まえた上でやるべきだったのではないか。盲人の視覚に関するこのレベルの理解に基づいて聖書の盲人を扱った章句の自由解釈を展開することは、 彼が出発点としているはずの、更には牧師が属している筈の、プロテスタントの自由主義的立場の持つ、科学的な認識と信仰との折り合いをつけようとする 苦衷を、まさに無知と盲目に基づいて嘲笑することに他ならないではないか。

だが、留意すべきは、そうした蓄積を知ってか知らずか、過去のそうした報告の繰り返しになってしまうことを口実に、牧師にジェルトリュードの成長を記録するという当初の 目論見を放棄させている20世紀の文学者ジッドよりは、18世紀の経験論者、啓蒙主義の哲学者達の方がよほど実証的で、現実に起きていることに対して 謙虚な姿勢を保っていることである。ジッドは牧師と医師マルタンの 対話の後、翌日の日記では既に、"Mais je crois inutile de noter ici tous les échelons premiers de cette instruction qui, sans doute, se retrouvent dans l’instruction de tous les aveugles."と言って、そうした実証を繰り返すことを今更やっても仕方ないように扱っているが、 そのくせ全体としては、そうやって素通りした思弁や実験の結果得られた結論をほとんど全く無視した、実証的には出鱈目に過ぎない内容の小説を書いているのだ。 コンディヤックの名こそ参照されてはいても、彼の「人間認識起源論」や「感覚論」を読んでいないことは 明らかだし、ディドロの「盲人書簡」一つまともに読んでおらず、科学的である以前に、哲学的な素養すら欠いているのは一目瞭然である。 人によっては、コンディヤックが参照されるマルタンと牧師の会話の部分を読んで、或る種の思想上の詐欺、哲学の濫用を感じ取り、 更にその後の展開を読んで、或る種の「知の欺瞞」であると受け止めるかも知れないし、「田園交響楽」を(それが如何なる正統的な信仰とも 異質であることはおいて)、或る種の(似非)宗教的原理主義(ただし原理主義の方は似非ではない)の如き科学嫌悪を表明したプロパガンダと とることがあっても不思議はないだろう。(こうした事実を知ると、「アンドレ・ワルテルの手記」や「狭き門」での夥しい哲学的著作の引用、参照もまた、 単なる虚仮脅しの類であって、ジッドはそれらが持っている重み、彼が否定しようとしたものの重みを、キリスト教神学の場合と同様、全く理解できて いなかったのではないかという疑いさえ抱きたくなる。彼はアリサに、マールブランシュや、ライプニッツのクラーク宛書簡まで読ませているのだが、、、)

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