ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書378番, p.410。1979年版のマルトナーによる英語版では375番, p.324, 1996年版書簡集邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では396番, p.360)
丁度マーラーが「大地の歌」に取り組んでいる時期に、ヴァルターに宛てて書いた手紙の一部だが、これもまた、ヴァルターの「マーラー」伝を始めとして色々な ところで引用されてきた有名な部分であろう。この文章には、まさに「大地の歌」に結晶する「受容」の過程が、その傷の深さとともにはっきりと刻印されている。 「そんなことはとっくの前にわかっていたことだ」という言葉は、若き日のマーラーを思えばいつわりは微塵も含まれていないが、にも関わらず、その言い方には 逆説的にマーラーの蒙った傷の深さを窺い知ることができるように感じられて痛ましい。ウィーンの宮廷歌劇場に40歳にならずして君臨し、すでに第8交響曲までの 作品を書き上げた天才が、一からやり直さなければならない、と書いているのを見るのは信じ難くさえ思える。
と同時に、この手紙を読めば「大地の歌」が何を語っているのかについての手がかりを得ることができるのではないか。それは「受容」の過程の結晶なのだ。 「とっくの前にわかっていたこと」のために一からやり直さなければならないという状況を受容して、再び仕事を続けられるようになる過程の反映なのだと思う。
勿論、ある人の生と作品とは別のものだ。けれども、マーラーの場合に限って言えば、そして特に「大地の歌」に限って言えば、その区別を殊更に 強調するような主張には私は抵抗を感じる。私はやはり、「大地の歌」を聴けば、マーラーのこの手紙のような心のありようとその音楽がほとんど 不可分なまでに結びついているのを感ぜずにはいられない。どうしてそんな結びつきが可能なのか?それこそが、彼が天才であるゆえんなのだろう。 いずれにせよ、その結びつきの切実さと誠実さこそその音楽の魅力の不可欠な要因だと思うし、私の様な平凡な―だが、傷つくことに関してだけは 彼と変わることのない―人間にとって、それを聴くことが、ある時にはほとんど不可欠にさえ思えるような力を持っているのは確かなことなのだ。
それを「普遍性」といえば語の厳密な意味では正しくないことになるだろう。だが、もういいではないか、という気がしてならない。100年も後の、 こんなに離れたところに生きている、気質も能力も異なる人間に対してその音楽の持つ力は、「普遍的」とか「永遠の」とかいう形容詞を 色褪せさせる。そんな天空のどこかで真偽が確証されるような概念は、少なくとも彼の音楽を聴く私にとっては不要である。 まさに「大地の歌」はそうしたものへの告別ではなかろうか。
(2007.6.9, 2024.8.7 訳文を追加。2024.8.10 noteにて公開)