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断片XI 未来に向けての、終わりなき運動

 巡礼はいつ終わるのか?とりわけても、この巡礼は?

 この巡礼は、双六の如きゲームに似て、終了状態(「上がり」)が定義されうるような、 整備された札所巡りとは異なって、終了状態を定義することはできない。これは達成を競うゲームではない。
例えばこんな具合に「巡礼」は間歇的に、不規則に行われる。

  • 小田原駅→城山高長寺→小田原駅

  • 町田駅⇒薬師ヶ丘→町田ぼたん園→薬師ヶ丘⇒町田駅

  • 町田ぼたん園往復

  • 町田市立民権資料館往復

  • 武蔵増戸駅→網代温泉→武蔵増戸駅

  • 八王子駅⇒新清水橋→谷野西公園→みつい台→中野団地⇒八王子駅⇒森下→上川町東部会館→森下⇒八王子駅

  • 小田原駅→城山高長寺→唐人町→小田原文学館→小田原駅⇒八王子駅⇒森下→上川町東部会館→森下神社→森下⇒八王子駅

  • 小田急永山駅→よこやまの道→瓜生黒川往還→海道谷戸→真光寺公園→鎌倉早道

  • 神谷町駅→芝公園→三田駅⇒泉岳寺駅→高輪東禅寺→品川駅⇒有楽町駅→銀座並木通り晴海通り交差点→泰明小学校→銀座駅

  • 国府津駅→前川長泉寺→前川海岸→国府津駅

  • 溜池山王駅→道源寺坂→西麻布三丁目→麻布十番駅⇒白金台駅→白金瑞聖寺→白金台駅

  • 鶴川団地→鶴見川→町田ぼたん園→野津田公園→大山道小野路一里塚→石久保→よこやまの道→七ツ谷→入谷戸→真光寺公園→鎌倉早道

  • 永山駅⇒聖蹟桜ヶ丘駅→倉沢川緑地→百草園→六地蔵→一の宮⇒多摩センター駅

  • 高尾山口→琵琶滝→前の沢→高尾山頂→稲荷山→高尾山口

  • 小田原駅→小田原文学館→御幸が浜→新宿海岸→唐人町生誕碑→小田原駅→城山高長寺→小田原駅

  • 赤坂駅→南部坂→道源寺坂→サントリーホール→赤坂駅

  • 湯島駅→無縁坂→本郷龍岡町→鉄門→無縁坂→湯島駅

  • 谷野南→造化の碑→みつい台⇒八王子駅⇒多摩センター駅→一本杉公園→小町井戸→小野路城址→町田ぼたん園→鶴見川→民権資料館

  • 片平→能ヶ谷→鶴見川(大蔵)→鶴見川(野津田)→町田ぼたん園→野津田公園→町田市立民権資料館→鶴見川(野津田)→鶴見川(大蔵)→能ヶ谷→片平

このリストはいくらでも追加しうる。 否、そもそも既に上記のリストのうちの一部は当初予定されていなかったものが追加され、延長された結果なのだ。 例えば白金瑞聖寺は最初は含まれていなかったし、百草園も、更には高尾山、とりわけても琵琶滝もまたそうだった。 では早川観音は?(だが早川観音なら、子供の頃に毎年母親に連れられてお参りに行ったし、その後も一度、石垣山の 一夜城と一緒に訪れたことがある。箱根の各所、つまり湯本、宮の下、塔ノ沢についても同様に、幼少時以来、 何度と無く訪れている。逆に小田原に住んでいた者のトポスの感覚から、記録にこそ残っていないが、 板橋の地蔵尊や飯泉の観音を透谷が訪れたことはないのかを問うてみることもできるだろう。)あるいは富士山はどうだろう? 日光、松島、花巻、飯坂温泉、水戸といった伝道旅行のルートはどうなのか?あるいは藤村を迎えに行った 鈴川、その帰途の沼津、三島は?透谷が過去の人であるが故に、それらは有限には違いなく、透谷地名事典のような ものを編むことも可能だろうが、しかし単純な列挙などにさしたる意味はないだろう。(単純な列挙ではなく、「水の想像力」と いうテマティスムによって数寄屋橋周辺を中心とし、透谷にとっての「場所」の意味合いを探った論考として 橋詰静子「北村透谷と数寄屋橋界隈」がある。)旅行で立ち寄った先と住んだ場所を 等しく扱うことはできないし、旅行先であったとしても、それが透谷の遺した文章の素材でれば別の重要性を持つだろう。 一方で「宿魂鏡」の2つのトポス、牛込と白河近くの山村はどうだろうか?「蓬莱曲」の舞台の蓬莱山は、慈航湖は? 「楚囚之詩」の牢獄はどこにあるのか?それらはリアルな場所ではないが故に訪れることが不可能であると決め付けることは できないだろうが、リアルな「巡礼」が不可能であることもまた否定はできないだろう。

 だが、透谷巡礼の最大の謎は、「芝公園地内三十八号」である。 これは勝本清一郎編の岩波書店版透谷全集の第3巻所収の日記、1890年十一月廿三日の項に以下のように記載されているのによる。

「同廿三日 芝公園地内三十八号、寺門厳かに俗塵稍ヽ遠きの処に居を卜す」

 文学研究者のこの住所に関する関心は希薄のようだ。 管見では、単に芝公園地内三十八号という記載を転記して転居の事実を述べるか、 良くて番地が不明である旨断るのが関の山のようだ。(周到な勝本清一郎も、この点については注記をしていない。)

 しかし、透谷終焉の地となった芝公園地20号4番地との差は、単に番地の特定の有無のみではない。 というのも、芝公園は明治6年に開園するとともに敷地が区画割りされたのだが、区画の数は25しかないのだ。 管見では、途中で区画数が増えたという記録には行き当たらない。 従って、透谷が日記に記載した「芝公園地内三十八号」は、文字通りには実在しない場所なのである。

 そもそも文学研究者たちは、透谷の足跡を辿るといいながら、透谷の住居が現在の住所のどこに対応するかを 記載しない。調べても書かないのか、それともそもそも調べもしないのかはわからないが、 私は、「大正元年東京市及接続郡部地籍地図」といった近い時代(透谷の時代から凡そ四半世紀後のものだが住所表示は変わっていない ようなので、詳細なこの地図は大変に重宝したが、こういう資料をwebで調べられるのは、インターネットが 普及の恩恵の最たるものであろう)の地図にあたる等して、現在の地図と比較照合し、 芝公園20号地4番、麻布箪笥町4番、麻布霞町22番、京橋弥左衛門町7番といった地名を自力で比定したのである。 だが、「芝公園地内三十八号」だけは比定のしようがない。 当時の地図を参照しても、そんな住所は存在しないからだ。

 かくして「透谷巡礼」は、最後の一つの場所に永久に辿り着くことがない。 それはどこにもない場所だからだ。勿論、透谷自身の誤記なのだろうが、それにしても、こうした顛末は、 心宮内の秘宮を、内部生命を語り、他界の観念を語り、現実の川口村森下行を「三日幻境」と捉えた透谷に相応しい。 「透谷巡礼」もまた、リアルなものであれ、ヴァーチャルなものであれ、すべからく「幻境」への旅であり、 透谷が秋山竜子(国三郎)を指して「わが幻境は彼あるによりて幻境なりしなり」と 記した顰に倣い、仮令、1世紀後のその場所を訪うても透谷には会えずとも、「わが幻境は彼あるによりて 幻境なりしなり」という認識を持つべきなのではなかろうか?

 そしてまた、「巡礼」は、「追懐」(レコレクション)のためではなく、「希望」(ホープ)の 故郷を訪れるものでなくてはならないだろう。それは表面上の用語法の違いを超えて、例えばベンヤミンの 歴史の概念についてのテーゼの「過去の一回かぎりのイメージは、そのイメージの向けられた相手が 現在であることを現在が自覚しないかぎり、現在の一瞬一瞬に消失しかねない」という言葉と響き合う だろうし、それはブロッホのEingedenkenからエックハルトのsynteresisへと辿ることで、 文字通りもう一度、透谷の「希望」に、「移動」ではない「革命」に結びつくだろう。否、透谷をそのように 読む可能性を追求するべきだろう。 既成のものから未完結なものを救い出し、まだ存在しない未来へと向かう 動きは、透谷が遥かに100年前に手探りで、だが確かに掴んだものであり、今日の我々が透谷に向かうときに 求められる姿勢でもあるのではなかろうか?

 巡礼は、とりわけても、この巡礼は、終りがない、未来に向けての運動なのだ。

(2014.7.14 執筆・公開, 2024.9.4 noteにて公開)

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