語録:ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーの言葉
ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーの言葉(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.100, 邦訳『マーラー 人と芸術』, 村田武雄訳, 音楽之友社, 1960, p.181)
これらの言葉もまた、あちらこちらで引かれている有名なものであろう。あんまり当たり前になっていて、ショーペンハウアーを引用するくだりなどは、 かえってマーラー自身が言ったのかどうかがあやふやになっていたくらいだ。
勿論、こうした問いを発したことは、とりあえず彼があのような音楽を残したこととは別のことだ。要するに、このような問いを発したからといって、 その問いがあのような作品の成立を担保するわけではない。職業的な音楽家として、あえてこのような個人的な問いを、己が作る作品に 明示的には持ち込まないことを旨とする姿勢があって良いし、むしろそちらの方が高潔であるとすらいえるかも知れない。こうした姿勢に関して マーラーの音楽に向けられる批判は、実は的を射ている部分があるのだと思う。
だが逆に、このような問いなしにあのような音楽が可能であったかを考えると、それは不可能であっただろうと思われる。良きにつけ悪しきにつけ、 それがマーラーの音楽なのだ。その「意図」や「内的なプログラム」に関する謎解きが、その作品の理解「そのもの」であるという立場に立たなくても、 ある場合には歌詞として持ち込まれる言葉が、またある場合には、記号的とも、イコン的とも、あるいはジェスチャー(身振り)というように 表現されるようなその音楽自体のあり方が、こうした問いに対する「営み」であることを理解させる。これはヴァルターのようにそうした文化の内側に いる人には自明のことかも知れないが、実際にはそんなに自明のことではない。どうして音楽が、快・不快とか喜怒哀楽以上の何かを表現したり、 聴き手に喚起したりすることが可能なのか。だが、結果的には、それは確かにマーラーの場合には可能になっていると感じられる。
そして、あるタイプの人間がマーラーの音楽にかけがえのないものを見出すのは、他の人にとっては鬱陶しく、或いはいかがわしくさえ感じられる こうした事情に拠る部分が大きいのではなかろうか。少なくとも私は、こうしたマーラーの姿勢とその音楽を切り離して考えることは 難しいし、それがマーラーが自分にとって「問題」であり続けている理由でもあるのだ。つまり、人と音楽との関わり方の様相は基本的には個別的な ものだが、このマーラーの「場合」の特殊性が自分を惹きつけて止まないのだと感じている。
このヴァルターの文章には、マーラーと直接交流のあった、それだけではなく、あのつらい時期に自己の心底を打ち明けることができるほどに マーラーが信頼していた人ならではの意味深い言葉がたくさんある。それについては、「証言」の項でとりあげていきたい。
(2007.5.20, 2024.7.10 邦訳を追加。2024.7.13 noteにて公開)