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なぜマーラーの音楽を聴くのか?

なぜ私はマーラーの音楽を聴くのか? なぜ(辛うじて生きる時代の一部を共有しはしていても)過去の、しかも文化的な環境も社会体制も全く異なる場所の作曲家の音楽を聴くのか? 何に惹かれ、何をそこから引き出そうとしてその音楽を繰り返し聴くのか? マーラーを聴くのは、知的な関心からではないし、娯楽としてでもない。 CDを買って聴く、(滅多にないことだが)コンサートに行く、というのは経済的な観点からいけば消費には違いない。 だが、それは暇つぶしではない。それを楽しみといってよいかどうかもわからない。

確立された権威、文化財としての音楽?作品が作られた状況や環境とは切り離して 残された作品と向き合う姿勢?だが、必ずしもそうでもない。なぜなら、マーラーの音楽に 関して言えば、その音楽に刻印された状況とそれに対する主体の反応の刻印が、 その音楽に惹きつけられる原因となっているからだ。勿論、こうした見方は、 音楽家なら持ちえたであろう制作の現場の視点を取りえない。だが、マーラーの 音楽を聴くのは、それと結びついた自分の経験を反芻するためではない。 きしみ、奇妙に歪んではいるけれど、時折はくつろいだ表情も見せるその音楽は、 私にとっては他者であり、そこからある種の姿勢であるとか、態度であるとかを 感じ取り、それに自分を同調させたりずらしたりしながら、何かを受け取っているのは 確かなのだ。

幾つかの演奏を聴くというのは大切なことだ。 どんなに優れた演奏であったとしても、ある演奏は切断面の一つに過ぎない。 勿論可能であれば自分で楽譜を読み、演奏するのが望ましいのだろうが、 それをしないまでも、別の演奏を聴くことで作品の持つ別の側面に気付く ことができる。だが、究極の演奏に辿り着くことはまさに同じ理由によって不可能だ。 結局は、あなたが指揮者でなくても、楽譜を読み、音を想像して自分なりの像を掴むしかないのだ。 結局、アドルノのいうところの星座の見え方は、各人固有のものであり、 他の誰も、その人の代わりにそこに立つことはできないのだ。

勿論、作品は作者ではない。作曲家の伝記を紐解いたところで、音楽自体は 変わることがない。だが、その音楽はいわゆる「個性」の刻印を紛れもなく帯びている。 技術的に言い当てることができなくても、その「個性」を認めることは難しくない。 そして、その「個性」に惹かれて、ある作曲家の作品を聴くのであれば、作者なしの 作品自体というものを考えるのは、少なくともマーラーの場合にはナンセンスだ。 作品自体が、作者を指し示している、その限りでの作者はここには確実に存在するのだ。

音楽の表現するものは、言葉の側から見れば本質的に曖昧だ。 一方で、音楽の表現するものを言葉が正確に言い当てることはできない。 音楽は容易にある体験、ある情態、ある雰囲気を探り当てる。 だから、人はしばしば音楽よりも音楽を聴いた時に我が身に起きた事を書いてしまう。 それが本当にその音楽でなくては不可能であったのかどうかを検証することは難しい。

或る種のスタンス、呼吸やリズム、反応様式に同調すること。それを思想と呼ぶのは適切ではない。もっと身体的で具体的なもの。 記号としての感情ではなく、情態や気分の反映を聴き取ること。 あるいは、これもひねくれた快楽なのかも知れない。だが、それは無くてもいいものではない。 社会的な機能という観点ではなく、個人が、ちっぽけな意識が生き延びるために必要な糧。 もしかしたら、そうした切実さが、創作の極においてもあったのではないか、だからこそ、それを欲する聴き手にとって、 他に代え難い価値を持つのではないか?

芸術を求めているのか、モラルを求めているのか? これを二者択一にすることは難しい。 ちなみに芸術の方は、学問なり知識なりに置き換えても良い。 もっともこれは、キリスト教文化圏と仏教的な文化の圏とではことなるだろう。 一方が他方に比べて優位ということはない、というのは多分、半分は間違いだ。 文化も進化論的な視点から見れば生存競争をしている。

だが、個人的には多分、モラルのない芸術や知識は受け入れることができない。 ならば逆は?美的な観点から、あるいは知的な観点からは全く凡庸だが、 モラルの観点から見たら非の打ち所の無いもの。 それを受け入れることはできるだろうが、我が物とすることには多分抵抗がある。 だが、それが実際には両立しえないとしたらどうなのか?

はっきりしていること。

同時代性やリアルタイムな問題意識、環境という点では、やはり日本のものに どうしても関心がいくことになる。勿論音楽家の問題意識は音楽家でない人間にとっては 疎遠には違いない。だから程度の問題なのだが、それでもやはり、環境の違いというのは 存在する。勿論、それを音として聴くのであれば、同じように聴くことができるだろう。 だから近藤譲のようなタイプの音楽であれば、別にそうした地域性のようなものは 問題にならない。だが、音楽をするということはどういうことか、とか媒体との関係などと いった実践の側面が入るとそうはいかなくなる。

一方で、音楽を聴くということについていえば、私の心を打つのはいわゆるクラシック音楽 なのだ。いわゆる現代音楽ではない。例えばマーラーの音楽を聴きたいと思う。 関心という点では、何人かの現代作曲家の動向には注目はしているし、 また能や義太夫節だって心を打つには違いない。だが、自分が親しみを覚え、 心を開くことができる音楽は、結局クラシック、例えば今ならマーラーの音楽なのだ。 これはどうしようもないことだ。それは歌があるかどうかとか、美しいかどうか、といった 問題ではない。一部は「刷り込み」に近い、自己形成の問題だろうし、 (結局同じことだが)自己を表現する、生のあり方、或る種の生きる姿勢や態度を 反映した音楽というものが、自分にとっての基準になっているのは間違いない。 音楽は心の安らぎのためにある。だがそれは娯楽と言い切ることはできない。 もう少し切実なものだ。

そうした聴き方はせいぜいヴェーベルンまでで、クセナキスは例外的にそれに近い感じ方ができる音楽だが、やはり、同じように聴くことはできないし、もともとそういう種類の音楽ではない。 心の「表現」としての音楽、ヴェーベルンで恐らく終わりを告げる主観的な音楽こそ、 私が一番聴きたい音楽なのだ。結局、他の音楽はなくなっても、そうした主観的な音楽との対話なしで生きていくのは困難だろう。

記憶のし易さ、というのがあるかも知れない。 勿論、記憶のし易さは、作品の価値を測る尺度にはなりえない。 あえて記憶できないように構成された音楽というのも存在するし、それはそれで意義がある。

だが、類別の尺度としては存在するし、文化依存、より個別的にはその個体の学習の蓄積により、 何が記憶しやすいかは異なりうるだろう。記憶のし易さ、どのような作品が記憶しやすいかは、 記憶するシステムの側の特性だろう。どれも同じに聞こえるというのは、類別のために必要なだけのパラメータの次元数を獲得していないだけ という事に由来する。記憶が可能であるのも、そのパラメータ空間の形成のし易さの程度の問題 だから、記憶が精密になるのは、異なりをより多く検出することのできる空間の豊かさが増している という事に他ならない。

音の構造への抽象的な関心も、それを音の認知の、記憶の、時間意識の問題と考えれば、 大変に興味深い。だが、方法論的な自覚がなくても、音楽は、そういった知覚の、時間意識の変容をシステムに 引き起こす力がある。少なくともマーラーの場合にはそうした変容それ自体が目的であるわけではない。 そしてどちらがより優れているかはいちがいには言えない。 それ自体が目的でない場合には、そうした変容は文化的な沈殿物を引きずっている、というより そうした文化的な沈殿物(それは「思想」なり「世界観」なりということばで語られるかも知れない)の 姿をして現れる。そしてその姿自体もまた、決して瑣末な飾りではない。

結局、個人的な問題を言えば、なぜ私は音楽を聴くのか、音楽を聴くことで何を得ているのか、 ということになるだろう。そしてそれが何故音楽でなくてはならないのか。 端的に言えば、私は生きる姿勢のようなものをそこに求めている。 出来上がった作品も、その姿勢の中に含まれるから、作品はどうでもいい、というようには 考えない。作品は抜け殻に過ぎない、という考え方もあるだろうし、作品と演奏の間の問題が 「向こう側の事情として」あるのも理解しているが、私は、作品を作り上げること、をその生き方の 姿勢の不可欠の要素として考えている。

もし、倫理的な振る舞いだけを考えれば、偉大と呼ばれる音楽家ですら、極めて不徹底な 存在になるだろう。欠点のない聖者を求めているのではない。だが、それでも作品だけで 作者はどうでもいい、とは考えない。作品は作者の主観の表現であるといったたぐいのロマン主義的な発想に作品が基づくか (少なくとも作者の主観的意図として)どうかによらず、やはり作品と作者を切り離して考えたくはない。 それはやはり生き物の行動とその結果に違いなく、そういう視点を放棄することは考えたくない。 行為だけで結果はどうでもいいわけでもなく、結果がよければ意図はどうでもいいわけでもない。

そして最後に、できればその音楽は音楽自体が、私の感じ方や考え方、生きる姿勢にアフェクトを もって欲しいのだ。そういう意味では、ロマン主義的な音楽は、私の場合という個別のケースでは 少なくとも結果的に、優位にある。そのように感受が組織されてしまっているという結果論で あっても、仕方ない。少なくとも、実験的な音楽は、マーラーの音楽が与えてくれるものと 等価なものを与えてくれない(し、それはないものねだりなのである。そのかわり別のものを 与えてくれる。)そして、私にはマーラーの音楽のようなタイプの音楽が必要なのだ。

意識という存在の宿命なのだ。意識とは目覚めであり、見張ることなのだ。 不思議なことに、意識は眠りの安らぎを我が事のように思い、望みもする。 だが、夢ならぬ眠りは意識には属していない。意識は己からはみ出すものを、知っているだけではなく、 それに対する情態をも備えるようになっている。 だが意識は、定義上それ自身は眠らない。夢見る意識に覚醒時の意識との連続性が あるとしたら、眠りの幕を抜けて、こちら側に移動するだけ。意識は夢の中で、 目覚めている。眠っている自分を見ている意識は眠っていない。そして例えばショスタコーヴィチと異なって、マーラーの音楽はしばしば眠りに近づく。それはとことん覚醒の音楽というわけではないのだ。そのことは恐らくマーラー自身が、意識にとっての外側にある、意識にとっては不可視の超越的なものに対する憧れを喪うことがなかったことと関係しているのだろう。

人によってはそこに「弱さ」を見出し、不健康なものとさえ見做して拒絶することもあるだろうが、だがその替りにその音楽は、「世の成り行き」から落伍し、よろめき、立ち尽くし、或いは時として歩みを止めて路傍に蹲ってしまうような弱者に対して手を差し伸べ、勇気づけてくれる。時として、暗く、厭世的と形容されることさえあるその音楽を聴くことは、私のような挫折した者、落伍者にとっては、それでも再び歩みを取り戻し、生き続けていくための糧となる。それゆえその音楽はかけがえのない、決して手放してはならないものなのだ。

(2006.9, 2025.1.18. 改題、補筆の上、noteにて再公開)

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