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断片XV 後奏曲 透谷巡礼

谷戸の光の効果はその狭さが産み出している。それは人と自然とが作り出すカテドラルのようだ。

谷戸の向きによって決まる一日のほんのわずかな時間だけしか谷戸全体が光に満たされることはなく、否、沢の流れの描くカーブに沿って谷戸が緩やかに曲がり、あるいは合流するとき、屈曲点より先の空間は、光の領域としては分割されて、屈曲点より或る距離を隔てた手前と先とが同時に光に満たされることはない。

とりわけても幅狭く奥行深い長大な谷戸の奥まったところがそのように分割され、入り口から見通せなくなって孤立した閉域となれば、そこは神的なものの場、神的なものが降りて充ちる空間となって、冬至を過ぎた季節には、
尾根の樹々の梢の合い間から差し込む光が、地表に葉を落とした幹と枝との交錯による模様を描き出す。
しかし、時々刻々と向きと強さを変える光の洪水の中に、谷戸の奥まった部分に居ます巨大なミズキは黙して佇む。

谷戸を整える人が通うための畦道さえも、その人が去った後には神的なものを迎える参道のようで、神的なものが降り立つ場から、視線を遮る尾根の裾を巻くようにして、緩やかに弧を描いて谷戸の底をなだらかに降りてゆく。

土から滲み出す水は最初は密やかに黙しつつ、水面に鈍い色を拡げて淀み、だがやがて谷戸を耕す人が刻んだ畦脇の水路を辿り、遥か先、谷戸の出口ではせせらぎとなって、時折尾根の樹叢の鳥の鳴き声だけが響く沈黙(しじま)の中、高い音を発して駆けるように流れ下る。
尾根に谺する響きは、かつて空から降りてきた神的なものの、今なお留まる痕跡の存在を証言して人を奥へと誘う力を帯びている。

入り口から奥へと道を辿ることは、静寂への移行であり、繰り返してその道を訪なう度に異なる時間の流れを、人の生涯の尺度を超えたより大きなエポックの、それゆえ巡礼者にとっては数多の祈りが織り成す不可視の地層の堆積を、同じ源泉へと遡行して、今なお残る気配に、かつて降り来った者を、だが追憶ではなく、未完了の出来事として予感することなのだ。

(2017.1.2 公開, 2024.10.29 noteにて公開)

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